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人の言葉づかいをとやかく言うものではないよなあ,という話

先日,とある学術誌の特別号に応募しようと思ってアブストラクトを送ったら,フルドラフトを審査して決定するとの返事がすぐに来た。それに対して承知しましたと返事をしたのだが,そのあと編集者から続けて「原稿を提出する前に誰かに英語をチェックしてもらうことを忘れないで」とメールが来たのだった。もちろん,アブストラクトは友人にネイティブチェックしてもらってから送っている。念のために言われたのだとは思うが,なんか気分が悪いなと思いながら,「英語を直してくれる友人がおりますので,もちろん提出の際にもそういたします」と返事をした。するとさらに,「失礼なことを言っていると思われていないといいのだが,あなたがネイティブスピーカーでないことは明らかだし,そのことは英語ジャーナルに投稿する際には不利にはたらくと思うので」とメールが来たのだった。

彼女は本当に,親切のつもりで言ったのだろう。しかし私は率直に言って,まあまあ気分を害した。もちろん,英語がヘタクソだと暗に言われたような気分になったのはあるが,それだけではない。英語だろうと何語だろうと,母語でない言語で文章を書き,それを公刊するつもりなのであれば,原稿の時点でネイティブチェックを受けるのは当たり前であるし,最低限の礼儀である。それすらも知らない人間であるかのように扱われたのが心底不愉快だったのだ。

こういう類の,「おそらく悪気はないのであろう」発言に気分を害することはたまにある。よくあるのは,母語じゃない言語で博論書こうとするなんてすごい!」と,こちらの人から無邪気に言われることだ。気にしない人もいるだろうが,私はこういう発言が非常に気に障る。だって,言語の問題ではないから。私はアイルランド史をやっているからアイルランドにいて,アイルランドの大学で学位を取ろうとしているのだからもちろん英語で論文を書く。ごくごく当然のことをしているに過ぎない。フランスの大学で学位を取るならフランス語の論文を書くだろうし,ドイツで学位を取るならドイツ語の論文を書くだろうし,もちろん日本で学位を取るなら日本語で論文を書くだろう。なんら不思議なことではない。それをなぜだか,ウルトラC級の芸当ででもあるかのように言われる。博士論文レベルで研究している人を,研究の内容ではなくその「母語じゃない言語で博論を書こうとする」涙ぐましい勇気や努力を称えるなんて,そんな無礼があってたまるかと思ってしまう。要するに,一人前の研究者として見られていない気分になってしまうのだ。彼らが実際どう思っているのかは知らないが。

やっぱりこういう言動に触れるにつけ,たとえ悪気はないにせよ,人の言葉づかいをとやかく言うものではないよなあという思いを新たにする次第である。たとえば私は以前にもこういう内容で少し書いたことがある。

mephistopheles.hatenablog.com

言語には実は隠然たる上下関係があり,その人が自然に使う言葉を無邪気に面白がったりするのって,あまり快く思わない人間もいるのだぞという意味で書いたのだが,やはり言葉には使う人の人格やバックグラウンドがものすごく強く反映されるわけで,いわばアイデンティティの具現化と言ってもいいと思うのである。それに気安くコメントするようなことは,やはり避けた方が良いのではないかと思う次第である。

最近見た中では,これなんかもその例である。私はこれを見て仰天した。ハリー杉山に対して,「いったいどうしてそんなポッシュな英語を話すの?ポッシュな英語なら私も聞くことがあるけど,あなたくらいポッシュなのは聞いたことがないよ。テレビ向けにやってるの,それとももとからそうなの?」とフォロワーの一人が質問をし,それに対してハリー杉山が「ポッシュすぎるとは思わないよ。ただ学校でそう習っただけで。そんなに変?(笑)」と答える会話で,一見ふつうのやり取りに見える。しかしイギリスに厳然たる階級差があり,それが言語に反映されるというのは,少しでもイギリスのことを知っている人なら誰しもが知ることであろう。*1

このやり取りにしても,ハリー杉山はただ素直にフォロワーの質問に答えているだけなのだが,彼は紛れもない上流階級の子弟で,名門カレッジを卒業しており,したがって彼が言う「学校で習っただけ」には実は字義以上の意味がある。それにしてもこのフォロワー,なんということを聞くのだろう。そもそも"posh"は,ニュアンス的には「気取った」とか「お高くとまった」など否定的な意味合いで使われることが多い言葉であり,決して純粋に「オシャレな」の意味ではない。したがって,面と向かって「あなたポッシュね」と言うことは普通はしない(たとえばごく仲のいい友達くらいになら言うかもしれない)。しかも,上記の通りで,ハリー杉山の来歴を考えれば彼が「ポッシュ」な英語を使うことは至極当然であるはずで,Twitterをフォローするほどだというのに彼のバックグラウンドも知らなかったのだろうか,などといろいろ不可解である。これ,ハリー杉山は受け取って不愉快にならなかったのだろうか。私なら,たぶんブロックしていただろう。

これらはもちろん,私の度量が狭いせいである可能性も多々あるため,一般にそうであるはずだなどというつもりはさらさらない。しかしこのように感じる人間もいるということが,もう少しだけ世の中に認知されてもよいはずではないかとは思う。なかなか長い道のりではあるのかもしれないが。

*1:

 たとえばこれに詳しい。

階級という言語 イングランド労働者階級の政治社会史 1832-1982年

階級という言語 イングランド労働者階級の政治社会史 1832-1982年

 

 

「お隣いいですか?」:HIS×東大美女図鑑の一連の騒動について

HISが「『東大美女図鑑』の学生たちがあなたの隣に座って現地まで楽しくフライトしてくれる企画」なるものを立案し,セクハラであるとのバッシングを受けて即日中止するという騒動があった。もう削除されている企画ページによれば,キャンペーンに応募して当選すれば,ヨーロッパ便等の長距離フライトの間「東大美女図鑑」の学生たちが当選者の隣に座り,「現地まで楽しくフライト」してくれるというものであった。一応,学生たちが東大生であることを活かして,現地までは学生らによる講義を受けることのできるという特典が売りになっていた。そのうちいくつかは学生の専攻分野に関わるものであったが,*1中には単なる学生の趣味である「お笑いについて熱く語る」だったり,「教養のある雑学」(って何?)を教えてくれる学生もいたりした。

私の見る限りでは,HISはこの問題によって著しく評価を下げていた。当然である。いろいろなところで言われている通り,こんな企画を立て,しかもそれが通るというのがまず信じられない。

たとえばid:saebou先輩はこのように述べていらした。ちなみに私はと言うと

もはやこんなことを言ってふざけていた。だってもはや,まともに取り合うのがバカバカしくなるほどの企画である。ちなみにHISの応募資格によれば,「アテンド役の東大美女と同様に東大在学中の女性,あるいは東大卒の女性は除く」などとは書かれていなかったので,私にも立派に応募資格があったことになる。ちょっとやってみたかった気もする。まあ,当選させてもらえないだろうけど。

それにしても,世間様はHISばかりを非難する。それは前述の通り当然ではあるのだが,HISは堂々と馬鹿なことをやって晒し者になり,ようやく事態の深刻さに気付いてすぐさま撤回するなどという,いわば潔いほどの浅薄っぷりを披瀝したまでであり,それによって社のイメージを思いっきり下げるという社会的制裁も受けているわけだから,私は別にこれ以上どうとも思わない。HISを使うことはしばらくないだろうが。心底馬鹿だなあと思っただけである。

しかし,この企画,HISが「東大美女図鑑」とやらを勝手かつ強引に使ったわけではないはずで,両者の間には合意があったはずなのである。つまり,「東大美女図鑑」は一方的に搾取されたわけでもないはずだ。じゃあ「東大美女図鑑」の方は,この件に関して何も言わないのか?と思って彼らのTwitterアカウントを覗いてみたところ,

呑気に五月祭でタピオカドリンクを売る宣伝などしている。いや,待って,そもそも,「東大美女図鑑」って,何?

stems-ut.jp

「賢いだけじゃない,かわいいだけでもない。知性と美を兼ね備えた『東大美女』たちを発信してい」くサークル(団体?)であるらしい。ああ,と思った。こういう,「東大女子って勉強ばっかりしてるわけじゃないんだゾ♡かわいい子だっていっぱいいるんだゾ♡」系のサークルって,私が学部生の頃からチャラ東大女子によって毎年のように作られては,泡沫のように消えていった。ちなみに「概要」を見ると,以下の通りである。

「東大美女図鑑」は、「勉強一辺倒で大学生活を楽しんでいない」という従来の東大女性のイメージを打破し、東大女性と東京大学のイメージアップを図るために、東大文科一二類26組のクラスメイトを中心とした男女7名によって、2013年3月24日に活動を開始しました。「東大美女図鑑」は、東大女性のイメージ向上に貢献することで、女子学生比率がわずか18.2%(2012年現在)である東大の女子受験者数増加を目指しています。

ありがたいことに彼らは「東大女性と東京大学のイメージアップを図る」ことを目標としてくれているらしい。*2そもそも,彼らが奮闘しなければならないのは,「『勉強一辺倒で大学生活を楽しんでいない』という従来の東大女性のイメージ」によるものらしい。そして彼らのがんばりの結果,「東大の女子受験者数増加」が果たされると見込まれているらしい。

それ,誰かに頼まれたの?

そもそも,「勉強一辺倒」だと「大学生活を楽しんでいない」ことになるのだろうか。そしてそれは東大女性のイメージを悪くしているのだろうか。ちなみに私自身も,学部生の頃から東大受験を考える高校生たちに話をする企画にいくつか携わってきた。修士の頃からは男女共同参画室にも時折顔を出していたし,「在学女子学生による母校訪問プロジェクト」にも参加したことがある。こうして高校生たちと話をする中で,「勉強一辺倒で大学生活を楽しんでいない」から東大には行きたくない,などと言われたことは今まで一度もない。むしろ一番多く聞かれたことこそ,大学に入ってからの勉強のことである。つまり,勉強一辺倒って,むしろ東大の魅力であるはずだ。そして多くの高校生は,それを評価して東大を選んで入学してくるはずだ。その敷居を低くしたところで,女子受験者数が増加するなどとはまったく思わない。綺麗なお姉さんがいるからという理由なら,むしろ男子受験者の方が増加してもおかしくない。勉強一辺倒がイメージダウンにつながるなら,東大よりもはるかに勉強一辺倒な海外の大学において,たとえばハーバード美女図鑑とか,オクスフォード美女図鑑とかがあってもおかしくないものだが,見たことある?ないでしょう。

と,前提からしてどうかしていると思わざるを得ないのだが,先述の通り,こういう勘違い系サークルは昔から現れては消え現れては消えしていたので,この「美女図鑑」とやらも遠くないうちその運命をたどるであろう,というのが私のおおかたの予想(であり希望)である。そのよくわからない信念に基づいて,勝手に活動してくれるのは別に構わないが,今回のように,声をかけられたからといって,浅はかに(しかも「東大美女」などと勘違い極まりない冠をかぶって)企業とコラボしたりするのは本当にやめてほしい。イメージダウンというなら,あなたがたのやっていることこそがイメージダウンに直結するはずだ。まあ,「美女図鑑」の学生たちのようなのばかりが東大女子であるとは,世間も微塵も思っていないだろう。ただ,少なくとも私は卒業生として非常に不愉快である。そして同じ思いの東大卒女性はそれなりに多いはずだ(今回の件へのリアクションだけを見ても,私の周りには一定数いた)。

今回のことはHISの「セクハラまがいの」企画に非があったのだという声は多い。確かにその通りではある。しかしその,(意識的か無意識的かは定かでないにせよ)セクシズムを,当の女性が何の疑いもなく受け入れているということをこそ,反省すべきではないのだろうか。男女の平等を希求するにあたり,敵は男性優位社会ばかりではないし,女性はいつも被害者であるというわけでもない。「女性の自立を妨げているのは男性社会ではない。女性自身の心の中に潜む男性への甘えと媚ではないか」というベティ・フリーダンの訴えは,半世紀経ってもまだ当の女性に届かないのだろうか。*3君ら,呑気に五月祭でタピオカなぞ売っている場合ではないぞ。何ならHISに今回の違約金として航空券代を出してもらって,ヒースローかシャルルドゴールかフランクフルトか,とにかくヨーロッパのハブ空港まで来なさい。そこから日本へのフライト中ずっと,私が君らの隣に座ってジェンダー論を講じましょう。一応ジェンダー史も専門分野のひとつだから,「熱くお笑いの話をする」とか「教養のある雑学」よりは専門性が高いはずだ。ついでに,私も東大卒だし。「お隣いいですか?」

*1:たとえば都市工学を学ぶ学生が「行き先の街の成り立ち」を講じるものであったり,建築学を学ぶ学生が建築を語ってくれるものであったり。

*2:ちなみに1段落の中で「東大女性と東京大学のイメージアップを図る」「東大女性のイメージ向上に貢献する」と,同じ内容のことを2回も繰り返しているあたり,彼らの国語力のなさが露呈している。それで文I・IIって,大丈夫か?

*3:

www.keisen.ac.jp

 あとベティ・フリーダンの著書として,これは必ず読んどこうな。「東大美女図鑑」のみなさんは100回書写してもいいくらいですよ。

The Feminine Mystique (Penguin Modern Classics)

The Feminine Mystique (Penguin Modern Classics)

 

 

新しい女性の創造

新しい女性の創造

 

 ついでにこのへんも読んどこうか。

 

決定版 第二の性〈1〉事実と神話 (新潮文庫)

決定版 第二の性〈1〉事実と神話 (新潮文庫)

 
決定版 第二の性〈2〉体験(上) (新潮文庫)

決定版 第二の性〈2〉体験(上) (新潮文庫)

 

私はカウンセラーでもセラピストでもない

昔から,なぜかいきなり,周りの人から秘めたる告解を受けたり,あるいは心情を吐露されたりすることがある。よくある。それはもう,彼氏がいるのにほかの男とキスしてしまっただの寝てしまっただのという女友達からの他愛もない(?)懺悔から,僕には昔からコンプレックスがあるんだとかいう,同級生からの独白までさまざまである。

もちろん,頼りにしてもらえるのはうれしいし,光栄なことである。しかしその反面,いつも話を聞いたあとで複雑な思いが去来するのにも,私はうすうす気づいていた。その思いとは,端的に言えば「知らんがな」である。それ,私に言ってどうなるの,という話である。これまたもちろん,彼らが根本的な解決を求めていないのはわかっている。私が話を聞くだけで,彼らにとっては救いになりうるのだということもよくわかっている。実際,彼らは私に話した後,喜んでいる風ではある。あなたに話を聞いてもらえてよかったと,たいていの人が言う。しかし,なぜその相手に,カウンセラーでもセラピストでもなんでもない私を選ぶのか。彼らがすっきりしているのとは対照的に,私のもやもやは募る一方であった。そして,こんな自分は器が小さいのだろうかとも思っていた。という思いを言語化することもできず数年来抱え続けていたのだが,以前にくたびれはてこさんが書かれたこちらの記事を拝読したとき,ああこういうことだったのかと思った。

kutabirehateko.hateblo.jp

私はたぶん,怒ってよかったのだと思う。怒らなくても,もっと面倒くさそうに聞くくらいの権利はあったのだと思う。話が話だけに,きちんと反応しなければ,きちんとコメントしなければと思うあまりに,無意識に傾聴して,無意識に疲れていた。でもそれ,たぶん当然のことだったのだ。だって考えてみれば当然だが,人に内面を吐露するというのは,人にその重みを半分,もしくは全部,背負わせることだ。重みを分けた彼らは,そりゃすっきりするわけだ。しかし私はただただ余計なものを背負い込むことになっていたわけだから,そりゃもやもやするわけである。

しかも,「ちょっと話したいことがある」などと前置きされて話されるならまだいい。*1私の場合,時に相手から話の流れでいきなり吐露されたりすることがある。いや,話の流れならまだいい。唐突にそんな話題が持ち出されることがある。思い詰めるあまりについ出てしまったんだな,と好意的にとらえることはもちろん可能である。しかしこちらの立場からしてみれば,何の心の準備もない状態でいきなり,「これ,僕/私の恥部です!」と,バーンと目の前に開陳されたようなもので,そんなのもはや,露出狂に等しい。キャッ,と目を覆えるならまだしも,まじまじと見てしまってから後でげっそり後悔することになりかねない。その場合の方が多い。いきなり殴られて「何すんだよ」と殴り返せる人は稀で,たいていの人は呆然とするだろう。そして自分に落ち度があったのではないかと考え始めるだろう。要するにそういうことである。そのうえ,抱え込んでいたものを人に垂れ流してすっきりするのだから,それはもう,はっきり言って排泄と同じではないか。私はカウンセラーでもセラピストでもない,ただのトイレか。

これ,私も30近くになってようやく気づいたようなことなのだから,根本的に難しいことなのだとは思うが,話しにくいことを人に話すというのはそれなりに業の深いことなのだ,ということは意識しておかないといけないだろう。はてこさんも書かれている通り,そういうことを下手にやってしまったら,それは他人の境界を侵害することになりかねない。内面を吐露するというのは,もちろん恥ずかしいことであるとの認識はあるだろうが,それでも敢えてそれをやれば,逆に勇気ある行動だとすら誤解されかねない。しかしそれはその実,ただの自己満足であることの方が多い。それでも話したいなら,相手にも重みを背負わせることになってしまうということを意識した上で,もちろんきちんと前置きして話さなければならないだろう。そして自分が話される側になった場合は,少しでも不快だと感じたらそれを断固としてシャットアウトすることが必要なのだろうと思う。非情なようにも思えるが,それがたぶん,自分を大切にするということなのだ。

なぜ急にこんなことを書いたかというと,最近もまた,こんなことがあったからである。しかも,前置きもなく吐露してくる感じで。別に,内容がセクハラ的であったとか,そんなことはない。ただ私はそれを「気色悪い」と感じたし,しばらく時間をおいてもなお「気色悪い」とあらためて思ったので,そっとシャットアウトしておいた。

*1:かといって,はてこさんの記事に出てくる男子学生を擁護するわけではない。彼のやったことは相手の女の子の気持ちを蹂躙しすぎだと私も思う。

いよいよ

延び延びになっていた面談がようやく行われた。

もうこの時期になると,具体的なスケジュールを詰めることが主な議題になってくる。序論と結論をいつまでに完成させて送れだの,その次にはフルドラフトを仕上げていつまでに提出だのと,いろいろ忙しい。その提出方法も,まずは1人の指導教官にメールで送って,コメントが返ってきたらそれに沿って訂正したものをもう1人の指導教官にハードコピーで提出,と細かい指示も出された。あとは初めて,外部審査員(External examiner)の話も出た。まだ決定ではないが,私が2人候補を出し,指導教官がさらに何人か候補を出した感じで,まあもう少し考えようか,という感じ。

いよいよだなあ,と改めて感じた。いよいよ忙しくなるなあと,いよいよ終わりだなあと,両方の意味で。途端にセンチメンタルになった。面談のあと,院生室に戻って何をするでもなくぼーっと1時間ほど席に座っていて,そのあとゆっくり帰宅した。なんだかふわふわするあまり,まずいと悪名高いラーメンチェーン,wagamamaに寄ってラーメンを食べて帰ろうと思ったのだが,院生室の机に座っていたのが幸いして,ピーク時で満席であった。とりあえず無駄遣いはせずに済んだ。

院生室に座っているときに,指導教官からメールが届いていた。submission review reportというフォームで,提出直前の学生が提出しなければならないものなのだが,そこには指導教官の評価も記入しなければならないのである。その評価を書いてくれたのであった。その最後,

Mai is a talented student, and we have gained much from working with her.

(マイは才能ある学生であり,我々も彼女との作業から多くを得ている)

と書いてあり,いよいよこの人は私を泣かせようとしているのだと思った。評価書なんて適当に,事実と進捗だけを書いてくれればそれでいいのに。 

 

「博士終わったらどうするの」

この前,人生初めての公募に応募してみたのだが,それが終わったら今度は学振の応募シーズンである。そのあとも公募には応募してみようと思っているし,高校の講師登録もしようと思っているから,博論の最終仕上げと並行でこれらのことをこなすとなると,いろいろ忙しい。まあ,30になるまで就活などしたこともない人間だし,一般企業の就活よりはよほどマシである。

しかしこちらで驚くのは,友達とこういう進路の話をしようとしても,話にならないことが多いということである。話にならないというか,予想をはるか超えた答えが返ってくることが多くて,呆気にとられることが多い。「博士終わったらどうするの」と,向こうから聞いてくることの方が多い割に,である。こちらの事情を知りたいから,ポスドクとか応募するの?と聞いても,いやしない,と言われることもたびたびである。彼らには彼らの予定があるのだろうと思って深く追及はしていないが,たぶん博士が終わったら,とりあえず何もせずゆっくりしたい,くらいに思っているんじゃないかと思う。カナダ人のアレックスに,博士終わったらカナダに帰るの?と聞いたら,すぐには帰らないかな,いつかは帰ると思うけど,2年後かもしれないし20年後かもしれないし,まあアカデミアに残るかどうかも決めてないしねー,くらいの答えであった。またスティーブンという私の1歳下の男の子は,博士が終わったらちょっとフランスにでも行こうかな,まあ自由にできる最後のチャンスだろうしね,などと言っていた。大学院に行ったりして人より長い学生生活を送っているのだから,すべての課程が終わったら一刻も早く就職しなければ,などという考えはこちらの友人らにはまったくないらしい。アレックスのように,博士を出たからと言って絶対に研究者になろうとも思っていない,という人も多い。私自身は早く働きたいし,研究者になるために博士課程まで進学しているようなものなので,彼らを特に羨ましいとは思わないのだが,嫌味でもなんでもなく,自由でいいなあとは思う。いいことなのかどうかは別として,これくらいの余裕が日本でも認められれば,みんなもっと気楽に大学院に進学しようと思ったりするかもしれない。

またポスドクに応募する人たちは,当たり前に海外を視野に入れているし,私もそうだと思われている節がある。日本のポスドク学振のこと)に応募しようと思っていると言ったら,いいね!イギリスとかアメリカもいいと思うよ!などと,屈託なく言ってくる。全欧州,時には北アメリカも視野に入れて就活をするのはこちらの学生にとっては当たり前のことなのだが,当たり前のように留学が終わったら日本で働き日本で生活して日本で死ぬのだと思っていた私には,とても視野が広くてまぶしく思える。そうあるべきなんだろうな,とは思うのだが。

まあでもいずれにせよ,こちらから主体的に選ぶなどということはまだまだできない身の上なので,とりあえずいろいろ出してみて,最終的に採用していただいたところにお世話になることになるだろう。などと書くとずいぶん消極的なようではあるのだが,私自身はそこまで悲観してもいない。むしろ,1年後,いや半年後の自分が想像できないというのは,なかなかわくわくするものである。あら,そう考えてみると案外,私もこちらの友人たちの考えに近くなってきたような気がする。でも「博士終わったらどうするの」という質問に対して,とりあえずは日本に帰るということしか決まっていない私も,もしかしたら立派に同類なのかもしれない。それならそれでいい。どういう未来があるにせよ,変化を楽しむことができれば何よりだ,とは思っている。

英語コンプレックスの深層:発音編

私は英語が苦手である。と言っても誰も信じてくれない。英語圏の国に4年間も留学していて,英語が苦手であるなどというのは信じがたいことであるらしい。またまたあ,とか,ご謙遜を,とか,そういう反応をされる。

確かに私は,大学院の博士レベルで留学しているから,読み書きに関しては高度なレベルでこなすことができる。うちの大学は留学生の英語力水準としてIELTS6.5を最低レベルとして要求しているが,私はもちろんこれを達成して合格している。先生や友人と英語で話すことももちろんできるし,学会で英語でプレゼンすることもできる。つまりどれをとっても,一般的に日本で英語が「苦手である」というレベルではない(自慢かよと思われた方,決してそうではなくて客観的に書きたいだけなので,どうか許していただきたい)。しかし,それでもなお,英語への苦手意識が消えないのだ。確かにおかしな話ではある。では,何が私に苦手意識を抱かせているのか,ちょっと考えてみることにした。

最大の理由は,やはり会話である。日本語では私は話し好きな方で,よくしゃべる人間である。性格を考えても,内向的とはとても思えない。授業などでもよく発言する方なので,いわゆる「典型的な日本人の性格」ではない。そんな私が,英語になると自信を持って話すことができなくなる。おそらくはそれほどまでに,「きちんとした英語を話さなければ」というプレッシャーは大きいものなのだろうと思う。さらに,背景知識がないことは話せないという問題もある。たとえば,私は指導教官と論文の内容などについて議論することはできる。しかしこちらの友人と飲みに行って,彼らが「子供のときこんなおもちゃあったよね」みたいな話で盛り上がり始めると,私は沈黙する他ない。つまり,「高度なトピックについて議論できるかどうか」は,よくよく語学力の指標と考えられたりするが,はっきり言ってそんなことは関係ないと思う。文化を共有しているかどうかというのは,やはり大事なことなのだ。

こうしたことをどう解消するか。まず,最初の「きちんとした英語を話さなければ」というプレッシャーから沈黙しがちになってしまうということに関しては,もう,焦らずにゆっくり話すことを心がけることしかできないだろう。「文法の間違いなんて気にするな」「とにかく話せ」というのが最もよく言われることだろうが,それを気にせずにいられたら,こんな風に苦手意識を持っていない。ああ,時制間違えた,とか,そういう小さなミスは自分の中で積もり積もってコンプレックスになっていく。だったら,そうしないように心がけるしかないのだと思う。次いで,文化を共有していないために話せないという問題については,もう開き直るしかないと思っている。何が何でも話すことがいいことではない。知らないことに関しては素直に聞き役に回るのも,時には仕方ないだろう。

しかしこういうことに優先して,最もコンプレックスのもとになってしまうものというのがある。発音である。

toianna.hatenablog.com

トイアンナさんが先日このような記事を書いていらしたが,本当にここに書いてある通りなのである。発音ができなければ,たまに何度繰り返しても通じないことがあるのだ。私自身は,一応発音に気をつけて話している。あなたの発音はとてもいい,と褒められることさえたまにある。しかしどうしても,日本語英語の最難関ハードルでいくつか超えられないものがある。たとえば,LとRの区別。そのレベルで何が発音がいいだよ,と思われるかもしれないが,Lは日本人が思うよりよっぽどねっとりした音であり,意識的に舌を上顎にくっつけなければきちんとした発音にならない。会話をしていると意識的な発音はそっちのけになってしまうことが多いので,何度発音しても"She is playing"が通じずおかしいなと思っていたら,手を組んで祈るポーズをされながら"Is she praying?"と聞き返されたことがある。またついこの前は,"My hometown is famous for ship-building(私の故郷は造船で有名なんだよ)"と言っているのに,無意識に"shi(シ)"が"si(スィ)"になってしまっていたらしくて全く通じず,最終的には綴りを言ってみてくれと言われて"S-H-I-P"と唱える屈辱を味わってしまった。文脈を考えればわかってもよさそうなものだが,どちらの場合も話し相手は非常に親しい相手だったから,私に意地悪をしているとはとても考えられない。つまり,正しい発音をしなければ文脈ですら理解できないときがあるということだ。さらに,これにはもうひとつ不利益がある。上に「屈辱」と書いた通り,私の場合は,これが一番落ち込むのだ。17年間も英語をやってきて,LとRやらshipとsipの区別もできないレベルなのか,と。おそらくこれが,コンプレックスにつながっていくのである。

Get Rid of Your Accent: The English Pronunciation and Speech Training Manual

Get Rid of Your Accent: The English Pronunciation and Speech Training Manual

  • 作者: Linda James,Olga Smith
  • 出版社/メーカー: Business and Technical Communication Services Limited
  • 発売日: 2006/07/19
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 さて,わかった以上はその克服につとめようと,一念発起してこんなものを買ってみた。1日最低1課を目標に,買った次の日から始めている。

ノンネイティブ,しかも帰国子女でもなんでもない人間にとって,この本はとても使いやすい。理由は,

1. 口蓋断面図が載っている。

2. さらにその横に,文章で発声器官をどのようにすべきかが書いてある。

3. 割とスパルタである。

 の3点に集約される。まず口蓋断面図の重要性は前掲のトイアンナさんの記事に書かれてある通りとして,私がとりわけ重視したいのは2と3である。

まず2について,たとえば"bark"などの「a:」の音に関しては,

Speech organs position:
Open jaw, relaxed lips; flat tongue pulled back a little. The sound is made in the back of the mouth.

という具合である。口蓋断面図を見てもなおわかりづらい場合,この文章でさらに確認すると非常にわかりやすい。

さらに3についてだが,まずp. 7の"Method of learning"というところに,

  1. Put your tongue, lips and jaw in the correct position for the sound
  2. Listen to the CD and try to imitate the pronunciation (5-10 min)
  3. Repeat each sentence without the CD (5-10 min)
  4. Record yourself, then listen to your recording and note down your mistakes (10-15 min)
  5. Repead the word where you made a mistake in the correct way three times (5 min)
  6. Activate the learned sound in your everyday speech

というようなことが書いてあって,読者を震え上がらせる。なんせ表紙にも書いてある通り,"Tried and trusted method used in London drama schools"なのである。生半可な覚悟は許されない。「5~10分練習」なんて,まるで日本人である。

また,各課はこれでもかとばかりひとつの発音を特訓できるように作られている。具体的には,ひとつの発音を何度も繰り返すのだが,音読すべき例文がいろいろ載っている。たとえば「a:」発音だと

Let's park our car at Barbara's as the car park is rather far from the theatre. 

という具合に,その発音が用いられているところ(つまり注意して発音すべき箇所)を太字で強調された文章がだいたい6つ載っている。さらにそのあとには韻文や早口言葉が載っていて,勘弁してくれというほど発音を練習することができる。何を隠そう,カラー刷りの見やすいチャラチャラした問題集や参考書より,問題をただ並べただけのスパルタな問題集が,昔から大好きであった。もっと早く出会いたかったくらいには,私の好みど真ん中である。

というわけで,飽きもせずここ数日発音の練習をしては,同居人にその成果を披露している。私が何の前触れもなく"Let's park our car at Barbara's as the car park is rather far from the theatre."だの"On our cruise to Bermuda we played snooker with our schooner crew."だのと言い出すので,同居人は困惑しつつも面白がっている。ただし,上にも書いた通りロンドンの演劇学校で用いられているメソッドとあって,かなりのイギリス発音である。私は知らずに買ったが,CDを聴いてびっくりした程度には,そしてアメリカからの帰国子女である同居人を驚愕させた程度には,イギリス発音であった。しかし私は昔からイギリス英語に憧れていたので,正しいイギリス発音が身に着くのなら願ったり叶ったりである。*1

しかし,こうしてみてようやくわかったことがある。私にとって「英語がうまくなりたい」とはどういうことであったのか,ということである。よく,「ネイティブ並み」に「ペラペラ」話せることだけが語学力ではないなどと言われる。確かに,それはもっともだと思う。しかし,それを踏まえてなお私は,ネイティブに近い程度の英語を使えるようになりたいのだと思う。つまり私は,どうやら自分が思うよりずっと,言葉に関してうるさい人間なのだろう。考えてみれば確かに,日本語に関しては相当うるさい自覚がある。そんな人間が英語に関して,「発音なんて気にするな」「文法なんて気にせずとにかく話せ」と言われても,無理な話である。そういうものだと思い込んでいた節があるが,それでは当の本人が納得できないのだ。そしてそれが積み重なって,コンプレックスになっていくのである。コンプレックスというものは相対的なものではなくて絶対的なものなので,いくら周りに英語を褒められたとしても,自分がそう思えなければ意味がないのである。これは今の今まで自分でも気づいていなかったことで,気づいたときには新鮮に驚いた。

さらに,英語圏に住んでいたとしても,発音の間違いを指摘してくれる人というのは,実はとても少ない。これはたとえば日本語を話す外国人に発音の間違いを逐一指摘するかと考えてみればわかることで,発音の間違いを指摘することというのは,割と失礼なことであるように思えるからだろうと思う。私の友人たちも,よくぞ今まで寛容に間違った発音を理解してくれたものだと思う。しかしこの前,話のネタにこの本を取り出して,こんなんやってるんだよと友人の1人に言うと,気になってるんなら今度から教えるよ,と言ってくれた。ダイエットと同じで,表明すれば周りは協力してくれるものであるらしい。私と同じように外国語の発音にお悩みの方,恥ずかしがらずに表明してみると,親切な友達が助けてくれるかもしれない。

そういうわけで,英語を学び始めて17年,英語圏に住み始めて4年,もうすぐ留学が終わる今になってようやくではあるが,特にこの4年間にわたって長々と私を苛み続けてきた英語への苦手意識をついに払拭したいと思っている。実はこれに加えて試していることは他にもあるのだが,発音編だけで5000字にも及んでしまったので,ほかの試みについては稿を改めようと思う。

*1:ちなみにアメリカ英語版もあるようなので,アメリカ英語を身に着けたい方はこちらをどうぞ。

Get Rid of your Accent General American: American Accent Training Manual (English Edition)

Get Rid of your Accent General American: American Accent Training Manual (English Edition)

 

 

節度を守ってジャニオタを楽しみたいものですね

amnosohmy.hatenablog.com

私,もう,唖然としまして。尾崎全盛期からすでに30年ほど経過していると思っていたが,2016年の今なお,こんな尾崎ナラティヴが元気に生存していたとは。なんかやたらと長いので手短に要約すると,

学校を早退して嵐のコンサートに行ったら学校にバレた。反省文を書けと言われ,人を小馬鹿にした反省文を書いた。ひゃー,私悪いわー。するとそれが学校で話題になった。ひゃー,私目立ってるわー。で,それをブログに書いたらこんなにたくさんの人に読まれた!私,時の人!フフー!

という感じである。

この高校生のやったことや発言等々については,うーん,なんかもう,別にどうでもいい。いや,正確に言うと,どうでもよくなった。この記事を読んだときには腹も立ったが,まあ,こういう「そもそもやってはいけないことを,悪いこととは重々自覚しつつも平気でやり,あまつさえそれを堂々と公表する」ファン,多いし。*1そしてこういう方々に,いくら高校生が平日に,それも学校を早退しないと行けないようなコンサートのチケットを取ること自体がおかしいのだと諭しても話にならない。もうこの文章を見れば明らかな通り,もはや怒られたことなど,露悪モードに入っている彼女にとっては勲章にしかなっていない(「みなさんこんにちは!非行少女です!」)。とりわけ「大人の言う『素直』って、自分の思い通りになれってことですか??<中略>立派な大人でも立派な子供でもないこの微妙な年齢を憎んだ」という一節にいたっては,もう感動すら覚えた。なんというステレオタイプなナラティヴであろう。一言だけ言うなら,「立派な大人でも立派な子供でもないこの微妙な年齢」だからこそ,君の幼稚きわまりない言動がその程度の罰則で許してもらえているのだよ。立派な大人だったら,下手すりゃ失職しかねませんからね。

ただ,どちらかというと私がひっかかったのは,「生徒指導係の優しい先生」が言ったという,「俺なら有給使っていくね」「全然反省していない反省文読んだよ。<中略>熱意が伝わったよ。俺もコンサート行きたくなったよ」というお言葉。こういう,生徒に媚びを売るタイプの教師,いますよね。株上げたいもんだから擦り寄ってきて「他の大人ってアタマ固いよな!俺はわかってるよ!気にすんなよ!」アピールをしてくる感じの。しかも,中高とかに多いですよね。生徒の多感な年齢を逆手に取ってね。私は個人的にこういう教師があまり好きではなかったが,まあ,いましたよね。卒業してからもやたらと馴れ馴れしくFacebookでつながろうとしてきたりね。ただ,こういうタイプの人を,生徒指導係に任命したのはどう考えても間違いでしょう。職務を全うして,彼女を厳しく罰さざるを得なかった他の立派な生徒指導係の先生方を,とてもお気の毒に思う。これは昔から思っていたのだが,学校の先生って,個人的には本当はどうでもいいことだってあるだろうに(学校をサボって嵐のコンサートに行くなんて,まさにその筆頭であろう),職務上,それも真剣に,叱らなければならないというのがお気の毒に堪えない。*2必死に叱ったら小馬鹿にされて反抗されて,挙げ句の果てに武勇伝みたいに公開されたら,たまったもんじゃないよなと思う。

そして,さらに驚いたことは,冒頭に要約した通り,この女子高生の記事が話題になっていたということだ。しかも,「潔い」とかなんとか,好意的なコメントとともに。若者が反抗的な態度を取るのが称賛される時代は遠い過去のことかと思っていたが,違ったようだった。なんなの,みなさん80年代ノスタルジアなの?まあ,同じ若いジャニオタ同士が称賛するならともかく,ひうらさとる先生のような影響力のある方までこの少女を称賛なさるのはどうかと思う。学校をサボってコンサートに行って,それがバレたら開き直って周りの大人たちを愚弄するようなことをして,あまつさえそれをこんな風にインターネットに公開して見せびらかすことは,称賛すべきこととは私にはとても思われない。彼女の行為そのものよりも,私は周りの大人が彼女をおだて,助長していることに辟易する。こういうことを言って子供に阿る大人がいる限り,そりゃ調子に乗るよな。

たまにAskなどなどで,「学業とジャニオタの両立方法を教えてほしい」などと聞かれることがある。私に聞かないとわからないことなのだろうかと思うのだが,両立できないなら,当然,ジャニオタを諦めるべきでしょうね。理由は簡単なことで,やるべきことをやらない人間に,やりたいことをやる資格はないからです。件の高校生にとってわかりやすい嵐の例で例えてみると,二宮和也さんは仕事をサボってゲームをしますか。大野智さんは仕事をサボって釣りに行きますか。あなたが幼稚な理屈を並べ立ててコンサートを観に行ったのは,立派な大人のプロフェッショナル集団だ。私ならファンである以上,そのタレントが恥じるようなファンにはなりたくないものですね。そもそも,なにか後ろめたいことをしてコンサートに行ってもまったく楽しくないし(私はね),個人的な結論としてはやっぱり,節度を守って無理なくジャニオタをやりたいもんですね,ということになるだろうか。

*1:参考までに,ジャニーズ野球大会を観戦したお友達のツイート。

*2:これは,私自身が教えるようになってから思うことでもある。課題の提出期限に遅れそうで必死に言い訳してくるとか,正直言って,知らんがなとしか思わない。