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プルートで朝食を

映画

プルートで朝食を [DVD]

プルートで朝食を [DVD]

ことの発端は4月にさかのぼるが,カレン先生のセミナーの「おまけ」的に企画してくださった,「アイルランド史をやっている学生でカレン先生を囲むランチ」の席で,私は知り合いの神戸大の博士のお姉さんと映画の話をしていた。「最近『アンジェラの灰』を見てアイルランドにげっそりしてしまって」と私が話すと,その方は「私も最近『マグダレンの祈り』を見て,ああカトリック,と……」と返すという暗い暗い方向へ進んでいったのだが,その場にいらっしゃったもう1人の先輩が見かねて「『プルートで朝食を』見てごらんよ」と勧めてくださったのがきっかけでこの映画を見ようと思ってから実に4ヵ月半後の今日,やっと見た。だってー,TSUTAYA高いんだもん。ちなみに私はこの映画自体は知っていて,公開された時は見ようと思っていたのだが結局見そびれてしまった。しかしこの映画がアイルランドの話だということも,ついでにこの流し目美女がキリアン・マーフィーだということも(最初ニコール・キッドマンかと思っていた),4月に初めて知ったのである。食事しながら見ていたのだが,いきなり冒頭でSugar baby loveがかかって思いっきりむせた。アイルランドの話なのに白々しいほど明るいオープニングである,というだけでむせることのできる私は,アイルランドナショナリズムに毒されている。
ミシェル・ゴンドリー×『リトル・ダンサー』/『ブラス!』+北アイルランド紛争」で,もしかするとこういう映画ができるかもしれないと思った。教会の前に捨てられていた過去を持つ「男の子」パトリック・"キトゥン"・ブレイディの自叙伝という形をとった話で,ちょこちょことした「章」に分けられている。このキトゥンが何ともいいキャラで,「おネエ」というか「オカマ」というか「ニューハーフ」というか,どうも「性同一性障害」とかいう重い言葉が似合わない感じなのである。といってもアイルランドカトリックの優等生でありますから,周りの人たちにとってはキトゥンの存在は恥さらし以外の何物でもなく,里親や義理の姉にまで疎まれる始末。それでもこのキトゥンは飄々としていて,おネエ言葉を話しながら我が道を行く。制服のセーターにスパンコールを縫いつけていたり,学校の作文の時間にエロ小説を書いて先生を激怒させてみたり(しかしそれは自分の出生の秘密なのだから恐れ入る)。でも,ああなんだ,保守的なアイルランドを舞台にオカマのアタシは力強く生きていくわよ,というパワフルなコメディかと思いきや,そこはしっかり70年代のアイルランド×イギリスで,要所に北アイルランド紛争のエピソードが挟み込まれる。友達が街路の爆弾テロの犠牲になったり,初めて恋をした相手のバンドマンが実はIRAの構成員で,彼が自分に家を与えてくれて喜んでいたら実はその家はアジト兼ライフルの隠し場であったり,ライフルを捨てたばっかりに危うく殺されそうになったり,母を探してロンドンに行き,そこでディスコに入ったらまたしても爆弾テロに巻き込まれ,被害者なのにアイルランド人だからという理由で拘留されて拷問混じりの尋問を受けたり,友達がIRA構成員になって秘密をばらして殺されたり,なかなかどうしてシリアスなのだが,それでもキトゥンは飄々と妄想しながら交わしていく。そして最後,お母さんに会うところはちょっと感動的だったりする。内容はずいぶん違っても,コメディの質として『グッバイ,レーニン!』に似ているかもしれない。あれも最後,生き別れになったお父さんに会ったりしているし。
それにしても仰天したのはキリアン・マーフィーの演技力である。言うまでもなくこの人は『麦の穂をゆらす風』のデミアン役の人だが,私はあの顔がどうも苦手で,したがって友人から「アイルランドに留学した先で素敵な出会いがあるかもっ☆」などというお気楽なことを言われるたびに暗い気持ちになっていた。今回のキリアンはものすごく綺麗でびっくりした。ニューハーフそのものにしか見えなかった。多彩な役柄を演じ分ける能力で驚いたのは,ジョニー・デップに続いてこの人が2人目です(だと思う)。ちなみに今回の映画で最も好きなシーンはこれなのだが,『麦の穂をゆらす風』をご覧になった人は「あのデミアンが!」と驚くはず。

しかしなぜキトゥンがロンドンでドラッグ・クィーンとして働かなかったのか疑問である。アイルランドよりもイギリスはセクシャル・マイノリティに寛容だし,そもそもキトゥンほど美しければトップスターになれるだろうに。
そして子供がごく普通にIRAごっこに興じていたり,作文の時間でも「なんでも好きなことを書いてよろしい,イースター蜂起とか」と言われていたり,やはりちょっと沈思黙考せざるを得ないものもあった。これが共同体の記憶というやつです。