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告白

読書

告白

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春だったか夏だったか,とにかくこの本が本屋大賞を受賞した時すぐに図書館に予約をしたのだが(ハードカバーの小説を買う趣味はない)時すでに遅く,数百人の予約待ちを経てようやく私の順番が回ってきたというメールを受け取ったのが昨日のこと,今日さっそく取りに行って,そして今日のうちに読んでしまった。これまた数時間で読めてしまった。
一度でも「生徒」の方に身を置いたことがあれば,彼らがどんなに恩知らずで礼儀知らずで陰険であるか,わからないことはないと思うのだが,それならばなぜ,そんな人たちとわざわざ日々関わることを仕事にしようと思う人がいるのか,私には理解できないでいた。特に私の中学校は市内でも悪名高い「荒れた」中学校だったので,先生の通勤用の原付が壊されたりなどということはしょっちゅうであった。ひどい時など,生徒が投げつけた上履きが先生の眼に当たり,装着していたコンタクトレンズが割れたことすらあった(幸い,眼に怪我はなかった)。他にも事件の数々を挙げればきりがないのだが,とにかくこの本の中で渡辺君が言っている「人間の失敗作」のような人間ばかりをまともに相手にしなければならないというのに,どんなに酷い目にあっても先生方は基本的に生徒の「敵」であり,それが可哀想だということばかり3年間考えていた記憶がある。そういうこともあって,私はいまだに中学生というのが苦手である。もっとも,今家庭教師で教えている男の子は考え方も物腰もずいぶん大人っぽく,やっぱり東京の子は違うんだなぁと感心した覚えがあるのだが。
で,この小説は,そうした生徒たちに対する,ある教師の「逆襲」と読むこともできて,個人的には非常に痛快ですらある。恩知らずで,礼儀知らずで,何か少し注意しただけですぐに逆恨みする,そんな人間になぜ教師だけが慈愛の心をもって接しなくてはならないのか。「大人だから」?「教師だから」?それはずいぶん,都合のよい考え方である。大人だろうが子供だろうが,いくら年上だろうが年下だろうが人間であることに変わりはなく,年長者だけが我慢して寛大に接してやる必要など,よく考えればないのである。子供がやったことに対して同じ方法で,あるいは同じような方法でまともに仕返しするのは大人げないことだろうか。たとえば,この物語のように,生徒2人に自分の子供を殺されたような場合でも。
こんなことを考えている時点で,私にはもしかすると教育者になる資格がないのかもしれない。しかしこれ,実はずっと考えてきたことでもあるのである。自分は親や教師から与えられた最低限の課題もこなさないくせに,あるいはその努力すらしようとしないくせに,子供扱いされるとすぐに不貞腐れて文句ばかりを言う,権利ばかり主張して義務を果たさない人間を,私は昔から心底忌み嫌っていたのである。わかってもらう努力もせずに,何が「わかってくれない」だよ,バカじゃないの,とずっと思っていたのである。だから私は,すべての学校教育課程に対して受験が導入されればよいと,中学校時代から,今でも本気で思っている。別に学校は,大人が頭を下げて子供に通って「いただく」ものではないし,ましてや不良に更生して「いただく」ところでもないのである。勉強したくない人間は最初から来なければいいし,嫌ならやめればよい。やっぱりこんな教育観を持っている人間は教育に携わる資格がないかもしれない。しかし教育というのはある程度誰かの倫理観の押しつけであって,となると正しいかどうかもよくわからない,もしかすると私のように,非常に独善的ですらあるかもしれない倫理観を,たとえば教師だからという理由で押しつけることはできるのか。読んでいるとそんなことを考えてしまう。
さて,この本は息を飲みながらずっと読み進めたほうがいいと思うので,ここには顛末を書かない。教師という職業や,学校という場などなどに興味をお持ちの方は,ぜひ読んでみて損はないと思われます。ただし個人的には,私はどの独白者にも感情移入できないなぁと思った(全6章,それぞれに違う人の独白から成る)。強いて言えば第2章の「殉教者」は,割と私の考えに近いかもしれないが。それから第5章「信奉者」の最初のあたりも,割と私の考えに近いかもしれないが。要するに結構,自分の嫌な部分さえも露骨に見せてくれる小説です。もちろんすっきりとした読後感は絶対にないが,それでも面白いのでおすすめ。