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ココ・アヴァン・シャネル

映画


『ココ・シャネル』がつまらなかったのでこちらに期待していたのだが,残念ながら輪をかけてつまらなかった。この映画を見ている2時間弱の時間よりも,映画を見る前に近くのカフェで紅茶とワッフルをいただきながら,章構成案と雑誌から抜粋した言説を付き合わせつつ,修論第2章の構成を練っていた1時間弱の時間の方がよほど内容があったし濃密であったように思う(加えて,ひさしぶりに食べたワッフルは非常においしゅうございました)。
先月19日の私によると,『ココ・シャネル』には「これがテレビ番組の特集なら,まぁ上出来でしょう。しかしこれは映画である。」という手痛い批評が加えられているのだが,『ココ・アヴァン・シャネル』に比べれば,ドキュメンタリータッチで丹念に描こうとしている努力が感じられる分,まだ『ココ・シャネル』の方がよかったようにさえ思える。これも先月19日の私に言わせれば,伝記映画を見ると,あれもこれも書き込もうとすれば焦点がぼけるという点において非常に論文を書く上での参考になる(そして,『ココ・シャネル』は焦点がぼけていた)ということであるが,同じ理屈を用いるとすれば,この映画は『ココ・アヴァン・シャネル』,つまり「(世界の)シャネルになる前のココ」と銘打って,シャネル創業までの道程を描くのだと大々的に触れこんでおきながら,そこで語られるのはこれまたエチエンヌ・バルサンとボーイ・カペルの色恋沙汰ばかりで,「あれもこれも書きこみたい」という意欲すら感じられない。大テーマを掲げて破綻しているが努力の跡は見られる論文と,論文としての出来はよいが小さくまとまってパースペクティヴに欠ける論文とでは,明らかに前者の方に好感が持てるのだ,とは色々な先生から言われたことであり,はぁそんなもんなのかなぁ,とぼんやり思っていたが,この映画を見てはっきりわかった気がする。『ココ・シャネル』が前者で,『ココ・アヴァン・シャネル』は後者である。
さて,『ココ・アヴァン・シャネル』ではシャネルの半生がどのような描かれ方をしているかと言うと,まずシャネルはナイトクラブで知り合ったバルサンの家に居候するが,ここでの扱いは使用人レベルの愛人といったところで,しかもこのバルサンが,やたら家父長的かつオリエンタリズム丸出しの,単なるアホなおっさんなのである。「日本にはゲイシャがいて,男のために何でもする。服を脱がせ,体を洗い,カフスボタンを外す(だから外せ)」「つまり奴隷ね」「(聞こえなかったふりで)私のゲイシャ」などというやりとりがあった時には,ああこれで神楽坂や祇園の近辺では上映禁止に……と青ざめた(が,調べてみると河原町のMOVIX京都ではばっちり上映されているようです)。しかし他に行くあてもないシャネルは黙って留まるしかなく,教養もなく金とステイタスがあるだけの知人を招いて夜な夜な開かれる享楽的なパーティー(しかもシャネルは「お前は人を楽しませるのが役目だ」などと言われてナイトクラブ仕込みの歌を歌わされたりする)にうんざりしていたところで,ボーイ・カペルと出会う。眉目秀麗なお姿,しかもしゃべってみると,一代で自分の力で成功した苦労人,私の「仕事がしたい」思いもわかってくださる,あら素敵,ということで2人はどんどん恋に落ち,めでたくシャネルはバルサンの家を出て,ボーイの出資でパリにて帽子店を創業,しかしいきなりボーイが事故で他界,あら終了,といった感じ。要するに,それで何?という程度なのである。シャネルが当時の装飾的な女性の服に対して心底うんざりしていたり,ドーヴィルで漁師の働く姿に興味深げに目を凝らすなど,インスピレーションを受けていることを表すシーンはいくつか挟まれているのだが,それもきっと伝記を読んでいなければわからないだろう。ちなみにここでもリトル・ブラック・ドレスはボーイへの喪服という位置の扱いであった。その前にボーイと旅行したドーヴィルでシャネルがドレスを仕立てるシーンがあり,仕立て屋が「ピンクの方が似合う」と言うのにも関わらず「瞳の色に映えるのは黒が一番だ」と断行するので,シャネルの黒に対するこだわりは何とか伝わってくるのだが,それがなければ『ココ・シャネル』といい『ココ・アヴァン・シャネル』といい,シャネルは草葉の陰でよよと泣くどころか,プライドの高いシャネルのことだから,やはりきっと全世界の服飾系の学生を操作して騒擾を起こさせるところであったに違いない。危ないところであった。
もちろんシャネルの全人生の中で,最も刺激的かつキャリアに影響を与えた部分をひとつだけ選べと言われれば,バルサンとカペルとの日々ということになるのだろう。それは私も否定しない。が,『ココ・シャネル』がそれと並行してビジネスで成功してゆく女の一代記の部分を何とか織りこもうとしていたのに対して,『ココ・アヴァン・シャネル』にはそれすらなかった。これだと,ただ単に2人の男を籠絡して男社会で財を成す,したたかな若い女といった印象しか得られなかった気がする。日本版トレイラーの最初に出てくる名言,「翼を持たずに生まれたのなら,翼を生やすためにどんな障害も乗り越えなさい」は私も大好きな言葉なのだが,じゃあその「翼を生やすため」の努力は?といったところである。しかも,今作のシャネルには恋愛に対して達観しすぎているようなところがあり,「できれば結婚したいのに,身分も違うし,仕事も大事だし,ああもう」みたいな葛藤もあまりうまく描けていないのである。せめて前述のようなバルサンの態度に対して「何よう」といきり立つような可愛げもあればよいが,オドレイ・シャネルはただただ「ふん,バーカ」みたいな態度を取り続けるだけであった。別にこれは今の世の中でも同じことである。どれほど男女差別がなくなってきたからと言って,厳然たる男社会はまだまだ存在しているわけで,そういう社会で生きている限り,当然セクハラにも取れるような言動に出会うことも多々ある。そんな時にいちいち「せ,セクハラよっ!」と目くじらを立てるのもまぁ一興であろうが,いちいち怒っていても不愉快な思いをするのもストレスがたまるのも自分だけだし,もしかすると旗色が悪くなったりして結局自分が損しただけ,ということはいくらでもあるのである。だからいかにセクハラ等々の理不尽を華麗に交わして(もちろん断固とした態度を取らなければならない時はあるが,瑣末な問題に関して),こんな低レベルの人たちとは同じ次元で話をしないわ,とでも思っておくというのが女性として必要なスキルとなりうることは今の時代でもそりゃあもう多い例なのだが,もしかするといちいち顔を真っ赤にして怒るくらいが「可愛げ」としてちょうどいいこともあるのかもしれない,などとちらっと思った。ちなみに,私は親にすら「可愛げがない」などと言われるほどのポーカーフェイス女であったので,実は結構これでもがんばっている方なのだが,それでも今なお,友達からは「怒っているのかと思った」などと言われたりする(電話に出た時などに多い)。ふん,バーカ。
と,こんな風に内容はまたしてもイマイチだったのだが,くわえ煙草でにこりともせずに仕事をするオドレイ・シャネルは超かっこいいので,オドレイファンの方は彼女のためだけに見てもよろしいかもしれません。それからボーイ・カペル役の俳優に関しては,少なくとも私は,今作の方が100倍好きである(エチエンヌ・バルサンに関しては前作の方が5000万倍好きである)。
さて,残るシャネル映画は『シャネル・アンド・ストラヴィンスキー』なのでそちらに期待……したいところだが,正直言ってシャネルに飽きてきた。『ストラヴィンスキー』の方はおそらく,芸術家のパトロンとしてのシャネルという,また変わった切り口のものだろうから,この2作とは全然違うものなのだろうけど。

しょうがないので,1日のうちでもっとも有意義な時間を与えてくれたワッフルの写真でも貼っておこう。おお,なんか女子ブログな気分だ。モンブランクリームの中にはカシスのアイスが隠されており,まさに「秘すれば花なり」であった。別に秘さなくても花であっただろうけれども。秋は甘いものが一番おいしい季節ですね。ちなみにこの紅茶は,モンブランワッフルとの相性が最高ということで選ばれていたルフナであり,こちらもおいしかった。やっぱりコーヒーも紅茶も濃いめが好き。こんな風に,The☆自己完結!なプライベートを過ごす私である(しかしそれが快適なことこの上ないあたり,どうなんだろう)。