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デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲(と,プーランクのクラリネットソナタ)

ピアノ


論文と変奏曲は切っても切り離せない関係なのでしょうか,私の場合。卒論のときはベートーヴェンの変奏曲をやっていて,今回はモーツァルトの変奏曲をやっています。私は高校までバロックと古典派ばっかりを教材としてがっちりピアノ教育を受けたので,(上手下手はともかくとして)弾いていてしっくりくるのはやっぱりバロックであり古典派です。ああ,この跳躍のないメロディ*1ロマン派以降のような派手さも少ない分,如実に基礎力が試されるというところも好き。大学に入ってからこっち舞台ではあまり弾いていませんが,バロックや古典派で褒められるのは,やっぱりクラシックを弾く人間として一番誇らしいと思う。
最後の1ヵ月くらいはピアノを弾いていなかったが,弾いておいてもよかったなぁ,と思う。というのは今だからこそ言えることなのだが。特にこういう変奏曲を聞くとそう思う。主題の骨組みだけは残しながらどうやって物語を繰り広げていくか,そうしてどうやって収束させるのかというのは,文章を書く上でも気にしなければいけないことである。特に演奏する場合だと,ヴァリエーションを弾く時は常に主題が出てくるところに注意を払い,聴衆に「あ,主題だ」とわからせるようにするというのが何より大切であります。一方論文でも,議論を展開しながら常に「私が伝えたいことは何か」を忘れないように,脱線しないようにして,結論であるべき収束をさせなければならない。というわけで,私も書いている時に変奏曲のことが少しでも頭に浮かべば,時々議論が明後日の方向に向かいそうになるのをさっさと止められたかもなぁ,と今日は思ったりしたわけです。学振の自己PR欄で私は幼児期からのピアノ教育に触れ,しまいには恐れ多くも「ピアノ演奏で培った表現力は,学問においても大いに役立っている。」なんて書いたけれども,別にあれは書くことがなくて書いたわけでもないんですよね。本気です。
しかしモーツァルト(でなくても他の作曲家もだが特にモーツァルト),どうやったらこんな単純な主題から次々変奏が浮かんでくるのやら。「弾く」側の人間でなければ,変奏曲ってあんまり聴く機会がないかもしれないが,作曲家ごとに向き合い方やアプローチの仕方,表現の仕方がずいぶん違うことがわかって面白いので,お勧めです。モーツァルトの場合は,とにかく,ああ楽しそうだなぁ,という感じ。遊び心がある。モーツァルトは頭がいいとか色々言われるけれども,モーツァルトを大作曲家たらしめる最大の要因は,頭の良さはもちろんとしても,音楽を楽しんでいたことだろうなと思う。たぶん,何でもそうですよね。できるだけ努力した上で,それからさらに差をつけ得るものって,その人が楽しんでやっているかどうかなんじゃないか。そしてそれが,人を動かす力になるんだろう。私も今感じている楽しさや喜びは,ずっと忘れないようにしたいなと思います。

同じく「楽しそうだなぁ」と思うのは,プーランク。中でもこのクラリネットソナタは最近初めて聴いたのだけど,冒頭の変態さ加減にもう,笑いがこみ上げて参りました。なんだこれー!しかし冒頭で人の度肝を抜いたかと思えば,あら,しばらくしたら美しいメロディ。急-緩-急の順でメロディが展開するのだが,特にその「緩」の部分なんて,もう本当に綺麗。これに引き換えフルートソナタは冒頭から正統派な感じなのだから,全くあなどれません,プーランク。ただまぁ,これで度肝を抜かれるあたりは,やっぱり私はバロックや古典の人間なのだろう。今まで独奏しかやってこなかったけど(学校の合唱の伴奏くらい),伴奏やトリオとかもやってみたいなぁ,もう無理かな。

*1:サークルのある先輩はこれを「ですよね?って感じ」と評されていた。言い得て妙である。