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Was he then a saint?

学校

昨日あんなくだらないことを悩んでいた罰が当たったのか,今朝は寝坊して20分程度で家を飛び出す羽目に。もう二度とあんなことで悩みません,とは口が裂けても言えないので,せめてあんなことをワールド・ワイド・ウェブに書かないようにいたします。
さて,金曜はアイルランド文学の授業の日なので,今日もPatrick Kavanaghの'The Great Hunger'を読んだわけです。私は英語の読みがまだまだ浅いのだろう,作者Kavanaghの冷笑的な視線になかなか気づくことができない。冷笑的な視線というか,ジョーク混じりで書いている箇所だとか,今日の報告者の方がおっしゃった「思わずプッと笑ってしまうような」箇所だとか,そういうところを至極真面目に読んでいるらしい。ご報告を拝聴してようやく,あっここ笑うところだったんだ,と気づく始末である。この前アイルランド史の先生に聞いた話だが,先生のご留学中,同じゼミに先生を含めて4人もの日本人学生(今はどなたも立派な先生方である)がおり,ゼミの誰かが気のきいたことを言ってアイリッシュたちがどっと笑っている時,日本人4人は黙ってうつむいていたのだとか。ゼミの先生は大変な親日家の方であり,日本人留学生にも慣れていらっしゃるため,「今の,わかった?」とウィンクをしてくださるのだが,「すみません,わかりません」と返すのが常だったとか。実に笑えない話である。
でもなぁ。私の英語能力云々を置いておいても,やっぱりこの詩を笑うことは私にはちょっと出来かねるかもしれない。議論の際に田舎の閉塞感がよく取り沙汰されるのだが,田舎において閉塞感よりも怖いのは,このまま一生暮らそうと思えば何不自由なく暮らせてしまう底なし沼のような安寧と,それによる「麻痺状態(この詩にも出てくるところの)」である。ここまででいいや,と思ってしまったら本当に,一生「ここまで」なのである。線を引くことはむしろ恐怖である。地方出身の子は「がつがつしている」とよく言われるが,地方出身者にとって,貪欲さはもはや生きる知恵にも等しいのだ。流れに乗っていればある程度のところまで行ける都会の人々とは根本からして違うのだから,どうかそのへんをわかってくれないかしら,とはこの6年間くらい思っていたことである(が,最近もう思わなくなった。今度は都会で麻痺したのだろうか)。詩中に出てくる「近所の人々」を気にする描写だって,全く他人事ではない。地方社会において,人の目というのは本当に,網の目のように張り巡らされていて,目立つことはそうそうできないつくりになっている。小学校や中学校の卒業式には,そこらのチンピラがそのまま齢だけを重ねたような親が現れたりする。そういうわけで私は,読む際に主観を入れ込み過ぎているのかもしれないが,やっぱりこの詩をコミカルなものとして読むことはできないような気がする。
さて,授業中ずっとそんな重い気分だったのだが,授業後に追い打ちがかかった。詩自体が長く,解釈を追うだけで授業時間を丸々使ってしまうため,訳のチェックは次の回の授業の最初に行うということだったのだが,私の担当箇所は「(誤訳が)結構多いので」メールでご指摘いただく,ということになってしまった。読んでいてわからない箇所は多々あったし,誤訳も多いことは承知だったのだが,しかし私だけ特例が設けられるほどだとは。いつになったら英語を普通に読めるようになるのやら。なんかもう全然ダメです。なので明日は,またしてもタイ料理です。
どうでもいいけれど,今日のお昼に食べたKALDIオリジナルパスタソースの「エビクリーム」は,この上なくリッチな風味なのにお値段250円なので,とってもおすすめです。本日唯一訪れた,至福のひとときであった。今度はウニクリーム(280円)も食べてみよう。