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ダウト あるカトリック学校で

映画

ダウト ~あるカトリック学校で~ [DVD]

ダウト ~あるカトリック学校で~ [DVD]

見た直後はもやもやイライラするのだが,そのおかげでじわじわ後から考えさせられるという,まるでトリモチのような映画でした。原作は有名な演劇なのだとか。映画を見た後で調べていて初めて知ったのだが,登場人物もかなり少ないし,台詞の応酬もまさにそんな感じだし,実際の舞台を見たことがない私にも,この映画は演劇の映画化作品として成功しているのではないかと思わされた。
ハリウッド的なサスペンス映画に慣れた身としては,最後にもちろんどんでん返しがあるだろうと期待して見ていたのだが,その期待は見事に裏切られることに。何が何だか,結局よくわからないのである。この映画のストーリーの核となる「疑惑(ダウト)」,フリン神父は結局ドナルド・ミラーと「不適切な関係」だったのか?という点についても,答えは出されない。シスター・アロイシス(メリル・ストリープ)がフリン神父を疑うことに根拠はない。しかしはなから嫌いだから,怪しいと決めてかかっている。追い詰める文言も「私には人間がわかる」などと事実無根なことばかりで,それだけを見ているとただただヒステリックな独身中年女のようにしか思えないし,疑惑も単なるシスター・アロイシスの妄執にしか思えない。しかしフリン神父もフリン神父で,生徒からは慕われているし,自らバスケットボールを教えたりするし,神父のミサには大勢の人が詰めかけるし,一見とても高潔で温厚な人格者のように見えるのだが,シスター・アロイシスの追求に対して明らかに動揺したり激昂したりしていて,本当にやってないならそこまでうろたえるか/キレるか?と思わせるのである。アロイシスが突き付けた「前任の教区でも次から次へと子供に手を出した」という(しかもハッタリだった)前歴に対しても,うろたえて否定しないあたり,本当にそうなのかもしれない(たぶんそうだろうとさえ思う)。そして極めつけは,ドナルド・ミラーの母の証言,「そういうことを望む子もいます」。つまりドナルドは,いわゆる「そっち」の人なのである。しかしこれも,かなり有力な証言のように思えるが,ドナルドにそういう性癖があること=神父がドナルドを誘惑した,にはならない。あくまでも,していてもおかしくない,でしかないのである。しかし,私も「やっぱりフリン神父がドナルドを!」と思ってしまって,すぐにそのことに気づいてぞっとした。人間はセンセーショナルなことに流されやすく,しかも話が面白ければ面白いほど,よく考えれば真実からどれほど遠いことでも信じようとする。
冒頭のフリン神父の説教のテーマはまさに「疑惑(ダウト)」だった。不安や疑惑といったマイナスの要因でも,それを社会が共有することによって絆が生まれる,というもの。そして舞台はカトリック系の私立学校。信仰と疑惑とは対置概念だろうか。シスター・アロイシスは自らの中に出来上がってしまった疑惑を,しかも根拠のない疑惑を信じ込んでしまった。信仰の第一歩とは,目の前にあるものを,正しいか正しくないか考えることなくまず鵜呑みにしてしまうことである。しかしそれが,本当は正しくないことだったら。結局,信じることと疑うこととは紙一重でしかないのだろう。シスター・アロイシスが正しいのかフリン神父が正しいのかわからないこの映画では,フリン神父が怪しいと報告したものの,結局どちらかわからなくなって混乱してしまうシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムズ)が最も信頼のおける,人間味のある登場人物なのだが,しかしこの人も,なんだか将来はシスター・アロイシスのような人物になりそうな危うさを持っている(中盤の授業のシーン)。ラスト,フリン神父が辞任して違う教区の主任司祭になったことをシスター・アロイシスとシスター・ジェイムズが語る場面がやはり圧巻。フリン神父にも色々あって,辞める形にはなったが,結局は栄転なのだからいいじゃないかと自分で言い聞かせつつ,自分をコントロールできないほど膨れ上がった疑惑の存在が恐ろしくなって泣き崩れてしまうシスター・アロイシス。
この映画について調べていると,9.11後のアメリカを表現しているという感想が多かった。つまり根拠もなくフリン神父が怪しいと決めつけ辞任に追い込むシスター・アロイシスが,ありもしない「大量破壊兵器」を口実にイラクに攻め込んだブッシュ政権であり,フリン神父がイラクであり,どっちつかずのシスター・ジェイムズは大衆であると。しかし私は,この作品はもっと普遍的なものを表しているのだろうと思った。誰にでもある,最も触れられたくない醜い部分というか。淡々としている割に強烈な印象を残す作品なので,おすすめです。