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今日読んだもの

読書

直接自分の研究にどう関わるかわからない,あるいは明確にまったく関わらない,そんな読書はいちばんの至福であります。

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

今日から現代文芸論のE. A. ポーの授業に出ている。19世紀の怪奇趣味・ゴシック趣味について,当時の文学作品を通して理解することは時代精神を理解する鍵になり,19世紀末から20世紀初頭にかけての文芸復興を研究対象に据える私がこれらを学ぶことは非常に有益である。しかもそれを通して,文学的な表象についても学ぶことができる。……と,このように御託を並べることはいくらでもできるのだが,まぁ一言で言えば/言ってしまえば,道楽である。快楽と言ってもいいかもしれない。ちなみに私,大変お恥ずかしいことだが,ポーは「黒猫」くらいしか読んだことがないのである(たぶん)。
さて,今扱っている作品は名作「アッシャー家の崩壊」。これからの授業のメインテーマは「家」や「庭」の表象的な意味についてなのだが(ピクチャレスクとか),今日は主にこの作品の色々な二義性が説明された。まずは「家(house)」,これは家の建物を指すと同時にそこにいる人々も指す。「アッシャー家の崩壊(The fall of house of Usher)」とは,文字通りアッシャーさんの家がガラガラと崩れるのと同時に,アッシャー一族が凋落するということも指している。加えて,アッシャー家の建物の外見は,主人であるアッシャーの外見に酷似している。無生物にも精神がある,というのはロマン主義の時代におこった思想である。ふむふむ。
次に「アッシャー」。「アッシャー(Usher)」は固有名詞であると同時に,一般名詞としては「案内人」,さらに動詞としては「案内する,導き入れる」の意味がある*1。この物語の最初,アッシャー家の陰鬱な外観が長々と語られたのち,ようやく主人公である語り手はアッシャー家の執事によって「招じ入れ(ushered in)」られる。つまり,上に挙げた岩波文庫版の解説から引用すると,「この物語の主人公"Usher"は語り手を,ひいては読者を,アッシャーの邸に,アッシャーの宇宙に,その無意識に,あるいは超自然的な幻想の世界に『案内する者』とも読める」。えー!!なにそれ!!すごい!!岩波文庫の解説にも載っているくらいなのだからおそらくは「何言ってんの今さら」的な王道の解釈なのだろうが,そもそも私は「アッシャー家」読んだことすらなかったのである。そんな華麗な解釈を知って誰が平静でいられましょうか。おそらくは学部生ばかりであろう教室(授業は院との共同だが)の片隅で,24歳D1の私は興奮を禁じ得なかった。
さて,これほどまでに興味を惹かれたのだったら,もう「ポー読んだことがない」なんて後ろめたいことを言っていずに,さっさと読むに限ります。善は急げ,とりあえず学校の図書館に向かってみた。すると,ない。どこもかしこもない。総合図書館の4階,文学のコーナー(私のオアシス)に全集シリーズの1巻としてあるという検索結果が出ていたので行ってみると,他の全集はあるのに,ポーだけがない。おそらくはこの4階のどこかで,誰かが閲覧しているのだろう。考えることはみな同じである。しかし学内の図書館からポーが一斉に消えるというのは,こんなことでもなければなかなかない現象だろう。さぁ,どうしましょうか。駒場の図書館には唯一の生き残りがあるらしいので,金曜日にそれを借りるという手もある。しかしもう,待ちきれない。でも,買ってもちょっと置き場所に困る(自宅の文庫本はもう飽和状態に達して久しいので)。というわけで,帰宅して区立図書館で借りました。わーい。コーヒーを淹れて,とりあえず「アッシャー家」を堪能。『嵐が丘』がぎゅっと濃縮されたようなゴシック風味で,非常に面白かった。ただこの「早すぎる埋葬」に関しては,欧米人じゃないと理解しがたい恐怖かもしれないなぁ。火葬が一般的な日本人には,その恐怖を共有しかねるところがあるのでは……とも思ったが,そういえば私自身,幼少時に「将来私が死んだ時,間違って生きているのに棺桶に入れられて火葬されたらどうしよう」と考えて恐ろしくなっていたりした。棺桶に釘を打たないでくれと遺言を残しておくべきか,真剣に考えたりもしていた。なので,案外わかるかもしれない。
近代イギリスと公共圏

近代イギリスと公共圏

こちらは難しいので,とりあえず第8章「宗教と公共性―アイルランドにおける宗派間対話の事例から―」だけ。こっちも,色々存じませんでした……。「(19世紀前半のアイルランドにおける宗派対立の状況においては)一連の論争・討論・対話を通じて,何ら教義面での深化がもたらされることはなかったし,宗派関係は悪化さえした」(p. 232)という結論は,先生ご自身が2005年度西洋史学会のシンポジウムで出したというコメント「ハバーマスの『コミュニケーション的な合理性』のモデルは,利害の対立を調整することはできても,宗教のような根本的な価値の対立に際しては有効に機能しない」のではないか,という問いに呼応する形になっている。確かにパンフレット合戦になったり,不毛な論戦になったりはしているようだが,「何ら教義面での深化がもたらされることはなかった」のかどうかはちょっと私にはわかりかねる(本当に理解しようと思ったら教義の内奥まで踏み込まなければならなさそうなので)のだが,公共性理論を何にでも応用可能なものとして無批判に褒めたたえるのではなく,限界もあるのではないか,しかも西洋史の研究対象として重要な宗教を扱う上で限界があるのではないかと一例を提示するこの論文が収録されていることで,この論文集における議論が深まっている気がした,とか言ってまだ全部読んでませんが。さて,私の研究するゲーリック・リヴァイヴァルにおいては,公共性理論はどのように応用できるでしょうか,それともできないでしょうか。

*1:先生が「アッシャーって何?」との問題提起をなさった時,ビッグマウスなモデル体型の黒人R&B歌手しか頭に浮かばなかった私は無教養な人間である。