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17歳の肖像

映画


大変評判のいい映画なので期待して見に行ったが,正直言って,そうでもなかった。よくある感じ。
まず主人公のジェニーちゃん(キャリー・マリガン),はっきり言って,バカなのである。オックスフォード志望の優等生とは思えないほど,バカなのである。いくら16〜17歳とはいえ,バカなのである。年上の,ちょっと格好良くてお洒落な大人の男性デイヴィッドに相手にされて有頂天になるのはまぁわからないでもないが,それにしたっていい大人が自分みたいな子供をまともに相手にするはずがないとか,ちょっとでも考えないのでしょうか。本気でまともに相手にしていたとしたら,それは大山巌・山川捨松夫妻,もしくは高橋ジョージ三船美佳夫妻のような「超」例外を除いて,大いに怪しいからやはり注意した方がいいのではなかろうかと思われる。なのにジェニーちゃんは,自分がちょっと大人の男と付き合っているということを根拠に,いきなり友達に対して優越感を抱き,得意げに「私と彼の話を聞きたければどうぞいらっしゃい」みたいな態度を取り,次第に学校の女王様的な立場へと変貌していく。こういう女は嫌われるでしょうよ……と思ってしまうのだが,まぁ自分が恋をするか,あるいは恋の話を聞くとかでもない限り,娯楽がないからねぇ,女子高生は。ちなみにこの映画の舞台は1961年イギリスなのだが,この時代設定は「ビートルズ出現前」という意味において非常に重要であるらしい。
さらに,その相手は何をしているか全くわからないのに,いやに羽振りがいいのである。まぁ,「大人が私みたいな子供を相手にしてくれるわけがない」との理解を,17歳,しかも恋する17歳に求めるのはちょっと酷かもしれないが,その相手が妙に気前がよかったら,さすがにちょっとこれはまずいんじゃないかとか思わないでしょうか。ジェニーの愚行はまだ続く。相手がやっているのは案の定,よろしくない稼業だったとわかっても,それでも踏みとどまれない(さすがに,まずいなとは思っていたようだが)。踏みとどまれないどころか,誕生日にはデイヴィッドにあこがれのパリ(出た!フランス好き女)に連れて行ってもらい,さらには帰国してからデイヴィッドにプロポーズを受け,これで勉強する必要もなくなったと学校を退学してしまう。娘をオックスフォードに行かせようとしていたのも虚栄心のためであり,娘の彼氏がなにやら金持ちだと知ったパパ(なんと名優アルフレッド・モリーナ)は「永久就職だ」とむしろ大賛成であり,学校の校長(こちらも名優エマ・トンプソン)は一応止めはするが,「勉強なんかしたって何の役にも立たない」とお決まりの捨て台詞を吐くジェニーに対して「大学を出たら教師になれるわよ」「公務員にもなれるわよ」としか言えない。私はこの時だけ,さすがジェニーは聡明な生徒だと思った。校長に「今の質問に対する答えは用意しておいた方がいい,私のような生徒は今後も必ず現れる」とご丁寧に忠告するのである。周りの大人で,母と2人だけ自分のことを本気で心配してくれる担任の先生に対しても,「あんたはケンブリッジを出たところで,こんなところでバカが書いた小論文を添削する毎日だ,私はそんな風になりたくないんだ」と言い捨てる。ドロップアウトコースまっしぐらである。つまり私が言いたいのは,ジェニーの過ちというのは「若さゆえの」なんて可愛いものではなく,何度も踏みとどまるチャンスがありながら,それをすべて棒に振ってきたということにある,ということである。それとも今まで勉強しかしてなかった17歳の女の子というのは,初めて恋をしたらそんなに前後不覚に陥るものなのか?少なくとも私はそうではなかった,と思いたいが。
さて,ジェニーのドロップアウト人生だが,これでかっこいい金持ちのデイヴィッドが白馬の王子様のように現れ,結婚して何不自由なく幸せに暮らしましたとさ,では映画にならない。もちろんこの後,ご想像の通り破局が訪れるのだが,そのあとの展開にまったく納得いかない。要するにこの映画は,こんなエンディングにしてしまったがゆえに,「若い時は冒険して挫折するもんだよね」「教科書からは学べないことがたくさんあるよ!」という,陳腐すぎるメッセージしか投げないものに堕してしまったように思う。某氏とよく話すことだが,なんか,挫折そのものを美化しすぎる風潮がありませんか,いや昔からだが。挫折して,そこから立ち直るという経験は確かに貴重なものだろう。挫折にいかに向き合うかによって,人間の底力が測れたりもするものだろう。しかしそれと同時に,挫折しないようにがんばるということも,同じくらい大切なんじゃないか。そもそも,「明らかに失敗する」とわかっていることをやって案の定失敗するのは,それは「挫折」ではないでしょう。そういう意味では私は,軽薄な行動をとって案の定失敗するジェニーよりも,『リア王』の授業中に一生懸命リア役を演じていた冴えない生徒を評価したい。何度も書いているとは思うが,私は個人的に,アウトローを気取って自分に酔う人間というのが一番嫌いなのである。丸山真男の言うところの「到底断固として『不良』の群に身を投ずるだけの度胸もなく,せいぜいちょっとばかり不良ぶる善良生―ある意味で(中略)正当的な優等生よりももっと鼻もちならぬ生徒」の類である。
この映画の日本でのキャッチコピーは「あの頃に戻っても,私は私を止めたりしない」だが,いやいや,私がジェニーなら,もし「あの頃」に戻ったら,私は私を全力で止めますよ。こう思うのは,ドロップアウトしたジェニーの立ち直り方にも大いに疑問があるからである。これでは「ちょっと失敗しかけたけど,まぁなんとかうまくやりおおせたぜ,危なかったけどとりあえずセーフ」くらいの感慨しか得ていないのではないか。「私は私を止めたりしない」なんていうのは,自分の過去をきちんと消化し,血肉にした人が言うことのできる台詞であって,少なくともジェニーに言う資格はない。挫折と同じく,若かりし頃の過ちというのも美化しすぎですよ。せめて,英文学でなく,デイヴィッドとの日々で得た数少ないものを生かして美術史を専攻しました,とかなら話は別だが。
こういうわけで,まるで女子中学生か女子高生の独りよがりな恋愛話を2時間弱にわたって聞かされ続けたような気分であり,もう何なら肘をついて斜め45°あたりの虚空を見上げながら「ふーん,ふーん,あ,え?あ,ごめん,聞いてなかった」とでも話半分の相槌をつきながら見ていたかったくらいである(が映画館であるためにそれもできず)。この上なくイライライライラした。「私にもあんな時あったなぁ」と微笑みながら思うほど,私はまだ思春期との距離が取れていないということかもしれないが,いや,それにしたってあんまりいい映画だったとは言えない。キャリー・マリガンは「オードリー・ヘプバーンの再来」らしいので,それ見るためならまぁ,見てもいいかもしれない。DVDで十分だとは思うが。私の場合,確かに,彼女のオードリーを思わせる可憐さに最初こそ目を奪われたが,あまりにも役柄にイライラしすぎて,その感慨もほどなく消えた。
せっかく見た映画がこんなのだったので,今日知った面白いことでも書いておく。ゼミの後,先輩と駅まで歩いていて聞いたのだが,「ハーバーマスツイッターを始めた」というデマがまことしやかに飛び交った時期があったらしい。そしてそれを知った先輩は「ついにハーバーマスもこの手の公共圏に……!」と感動すら覚えたらしい。先ほど書いた通り,これはいわゆる「なりすましハーバーマス」によるデマだったのだが,しかしなぜ,「なりすます」対象としてハーバーマスを選んだのか。その人物のツイートも,「あ,これハーバーマス言いそう」と思われるほど,まことしやかなハーバーマス節(?)だったらしい。自分自身に何の益もないのにハーバーマスになりすますことを考える上,おそらくはハーバーマスの著作に熟知しなければ叶わないであろうなりすましツイート。おそらくその人物は,天才である。