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ピアノ・レッスン

映画

ピアノ・レッスン [DVD]

ピアノ・レッスン [DVD]

なんとか昨晩遅くに準備を完了させて臨んだ今日のイェイツ読書会は,まぁがんばった分だけは報われたかなという感じで,後味はよかった。図書館で用事を済ませた後,後味よかったついでにBunkamuraへ出て,現在リバイバル上映されている『ピアノ・レッスン』を鑑賞。『ブライト・スター』が近日上映されるので,ジェーン・カンピオン祭りということらしい。実は私,これが初『ピアノ・レッスン』かつ初カンピオンであった。ピアノ弾く人間で,しかも19世紀ブリテン史をやっていながら,なんで今まで見なかったんだという話である。
ストーリー自体はいたって単純で,口をきかない女性エイダが娘フローラとともにニュージーランドへ嫁いできたが,現地で待っていた夫スチュアートはつまらない人間であり,通訳の男ベインズと不倫関係に陥るという話。このように説明してしまうと非常に陳腐である。しかしその陳腐な話がパルムドールを取ったというのは,もちろんカンピオンの繊細な演出によるものである。
この映画の作中人物の関係はエイダをめぐるスチュアートとベインズの三角関係で,このスチュアートとベインズの対比は非常にうまく描かれている。キーになるのはピアノの扱い方で,スチュアートはエイダがはるばるスコットランドから持ってきたピアノを重すぎるからと上陸地の浜辺に置き去りにし,そのピアノを勝手に売ってしまったりする。エイダがせめてと思って食卓に鍵盤の形を彫り,その上で指を動かしていると「口をきけないだけじゃなくて頭もおかしいんじゃないか」と本気で考えたりする。しかしスチュアートは別に,エイダに対して悪意があってそんなことをしているわけではないらしく,「そういうもんだ」と思ってやっているらしい。ピアノを置き去りにしてきても別に申し訳なく思ったりはしなかったようだし,ピアノを勝手に売ったことに対してエイダが怒っても,「犠牲に耐えるのが家族」とか言って平気でいる。たぶん彼はよく言えば敬虔なキリスト教徒,悪く言えば単なる堅物で,「犠牲に耐える」ことをおしなべて良いことと思いこんでいるようなきらいがある。しかしその割には「ピアノと土地を交換する代わり,奥さんにピアノのレッスンを受けたい」とかいうベインズの下心丸出しの要望をほいほい飲んだり,結婚後いつまで経っても自分に心を開こうとしない,それどころか面と向かって反抗的でやりたい放題なエイダが心を開くのを辛抱強く待っていたりして,一体この人は寛容なんだかなんなんだかわからない。エイダと結婚する時も,「神ももの言わぬ動物を愛する」と,なんかうまいこと言ったつもりなのだろうこと(比喩としてかなり問題ありだし,エイダ本人にも「彼に神の寛容が?」と皮肉られていた)を言っていたりする。
一方ベインズはピアノがエイダの分身のような存在であるとちゃんと理解していて,ピアノを自分の家に入れた後ちゃんと調律したりもしているし,エイダとともにニュージーランドを去る時も,重くて無理だという意見に耳も貸さず,「彼女の大事なものだから」とマオリのボートの上に括りつけて(!)ピアノを持って行こうとする。ただ以前にid:saebouさんが「この人[カンピオン監督]の考えるエロティシズムの表現というのはちょっとすごい特殊で,見ていて『これって綺麗なつもりでやってるんだろうけど,そうなのか??』と疑問になる描写がいっぱいある」と書いてらしたのがなんとなくわかった気がした。なんか非常にねっとりしているというか,「ああ美しい」と嘆息するというよりは,うわぁ,見ちゃいけないもん見ちゃった,と思ってしまう。例えば上で書いたピアノの取り扱い方で,ベインズがピアノの手入れをする場面があるのだが,エイダを思うあまり,全裸になって脱いだ自分のシャツでピアノを撫でるように拭き,しまいにはピアノを抱きかかえるようにする。お願いだからそれ以上は見せないでと切に願ってしまった。またこの映画の邦題は『ピアノ・レッスン』だが,実際はレッスンなどしていない。エイダを家に呼んでピアノを弾かせ,ベインズはその間「したいことをする」。黒鍵の数だけそのようにさせてくれればピアノを返す,という約束なのである。しかしその「したいこと」も,最初のうちはエイダが弾いているピアノの下に寝てひたすらペダルを踏んでいる足を見つめていたり,なんか非常にフェチっぽい。エイダに下着姿でピアノを弾かせながら,ひたすらエイダが脱いだ服の匂いを嗅いでいたりもする。母とベインズの情事を見てしまったがその意味がわからないフローラが,木を相手にキスをして体をすりよせて遊んでいるところをスチュアートに見られて怒られるシーンがあるのだが,いくら子供が無邪気だとはいえ,そこまで演出しなくてもいいじゃないかという感じだった。
この映画でエイダは口をきかないが,どうもエイダの話によると6歳の時に自ら「話すのをやめた」ということで,口を「きけない」わけではないらしい。しかしピアノが彼女の発声器官の代わりになっているので不自由はしないということだった。一瞬,言葉によるコミュニケーションの限界性を扱うのか?と思ったのだが,しかし実際問題としてエイダは他の人と話す時に手話や筆談を用いているし,別に言葉を見限ったというわけではないらしい。ベインズと引き離された時も,鍵盤の1本を抜いてそこに「私の心はあなたのものよ」と書いてフローラに言付けようとする(実際にはそれは失敗したのだが)。ただこの映画の舞台が入植直後のニュージーランド(=言葉が通じない)であるということは,まぁ考えるべきかもしれない。ベインズは読み書きのできない無教養な人間で,顔に入れ墨を入れたりしてマオリに半ば同化しており,白人たちからはバカにされているが,マオリの言葉を解することができるし,エイダのピアノに心を動かされている。つまり彼は相互のコミュニティのボーダーに立っている存在であり,なおかつピアノやマオリの言葉といった,「声なき声」に耳を傾けることのできる存在なのだろう。最後,ベインズと暮らすようになってからエイダが発声の練習を始めるのも,本当に心を開ける相手が出来て変わったという描写と読めるかもしれない。しかし,そうすると最後にスチュアートが言う「エイダの声が聞こえた気がした」というのは何だろうか。そしてベインズには,そんな風に声が聞こえた気がしたことはないという。またスチュアートの家族であるおばさんも,エイダのピアノについて「心をかきむしるようで気味が悪い」と言っている。彼らにエイダの声なき声が「聞こえない」というわけでもなさそうである。ただベインズはエイダのピアノを心地よく聞いていて,おばさんには「気味が悪い」とすれば,エイダがきちんと相手によって弾き分けているのかもしれない。ニュージーランドである意味はあったのだろうかと疑問に思ったが,エイダにとってニュージーランドに来ることは,言葉の通じないマオリの地に来ることであると同時に彼女の声を聞こうとしないコミュニティに入ることであり,ニュージーランドを出ることはそこから出て行くことであるのかもしれない。
エイダがベインズへ鍵盤を送ろうとしていたことがバレ,怒り狂ったスチュアートに斧で指を切り落とされるところとかは見ていて疲れたが,見た後もいろいろなことが頭から離れず悶々と考えさせられて嫌でも印象に残る,非常にいい映画だと思われました。ただしピアノをやっている人間からひとつだけ文句を言うとすれば,エイダはピアノが自分の声だと事も無げに言っているが,その境地にいたるまでにどんな苦労をすると思っているのさ……あと全編通してピアノの扱いがちょっと酷すぎます。あっ,ふたつ文句を言ってしまった。まぁいいや。
しかし最近は映画をあまり見ていない上,見たら見たで疲れるものが多い。何も考えずパーっと楽しめるラブコメが恋しくなってきた。