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マン・レイ展およびアイリッシュパブ

余暇

今日は夜からアイルランドゼミの飲み会だったのだが,代々木で開催とのことだったので,ではとその前に同じ路線の国立新美術館へ「マン・レイ展」を見に行った。絵の展覧会ばっかり行っていると,ああもう油絵だの水彩だのどうでもいい,と食傷気味になってくるのだが,今期は絵以外の展覧会に多く行けて本当にうれしい。陶器だの剝製だの。

おそらくは今回の展覧会の目玉であろう,キキ・ド・モンパルナスをモデルに撮影された「黒と白」。この一枚で写真は芸術へと昇華したそうです。ええ,きちんと『美の巨人たち』で予習して行きましたよ。しかし本当に,これほど見事だと言葉も出ずに呆然と眺めることしかできない。卓越,とはこういうことを言うのですね。そして映像の世界はどんどん進歩するけれども,白黒の静止画にこんなに雄弁に語られてしまっては,3Dなんてもはや立つ瀬がないというか,子供だましですね。本当に優れたものはそう簡単には超越されないのである。ちなみに詩人コクトーはこの写真を見て「シックの極致」と評したそうなのだが*1,それを聞いてコクトーに大いに幻滅してしまったのは私だけだろうか。だってこの写真をですよ,「シックの極致」だなんて。いやしくも詩人ともあろう方が。私たちが「超きれー」とか評するのとほぼ同じじゃないでしょうか,それは。
写真家として大成し,いくつもの新しい手法を考案したマン・レイだが,実は写真など芸術ではないと考えており,本心はずっと画家になりたかったのだということ。しかし,画家としてのマン・レイは全く評価されなかったのだとか。今回の展覧会には彼の絵画作品も多く展示されていたのだが,なるほどそう言われてみればわかるような気もした。なんか彼の絵,すべて「どっかで見たような」感じがした。「抽象画って要するにこんなんでしょ」というような意識で描いているような気がした。模倣なくしてオリジナルが生まれないというのはその通りなのだが。それに引き換え,写真のなんと見事なこと。彼の撮影したエヴァ・ガードナーがものすごく美しいのは,エヴァ・ガードナー本人が美しいからというだけではあるまい(エヴァ・ガードナーに関してはポストカードまで買ってしまった)。しかしこんなに写真で才能を表しながら,終生絵描きとして評価されることに執着し,写真家としての自分を毛嫌いしていたというのは,どうにも悲しいものである。人はないものねだりをやめられないものなのでしょうかね。芸術の世界がいかに厳しく恐ろしいか,ピアノを弾く人間のはしくれとしてその一端は垣間見てきたつもりだったが,1920年代のパリなんてところで,周りに画家がうじゃうじゃいるような環境で,自分は画家のまねごとのようなこと(少なくともマン・レイはそう思っていただろう)しかできない,というのはおそらく強迫観念を与えて余りあるものだったのだろう。人にできるものがなぜ私にできない,というような。そして写真家として成功していれば,なおのことだっただろう。持たざるものにではなく,持てるものに目を向ける,というのはなかなか難しいことなのだろう。簡単に言うけれど。
マン・レイはポートレイトが得意だったとのことだが,会場には面白い人の写真がいっぱいあった。前述のエヴァ・ガードナー,もちろんキキ・ド・モンパルナスをはじめ,女子ならばその名を知らぬ者のないヘレナ・ルビンスタイン,それにサティやストラヴィンスキーまで。エヴァ・ガードナーのポストカードを買ったのは先述したとおりだが,サティやストラヴィンスキーも売られていたので買った(なぜか「黒と白」はなかった)。サティはちょっとピンボケ気味なのだが,ストラヴィンスキーはちょっとやりすぎじゃなかろうかと思うくらい格好いいポージングである。帰宅してから,お3方ともピアノの上方の壁に陳列してみたら,なんか仏壇の上のようになってしまった。今後うちにいらした方には,「おばあちゃんは昔女優だったの。で,これがおじいちゃんとひいおじいちゃん」などと紹介いたします。
それから代々木に移動し,アイルランドゼミの打ち上げ。もちろんギネスかキルケニーで乾杯と思っていたら,生で飲むのはなかなかレアであるという「よなよなエール」をメニューに発見したので,私も入れた数人でそれをオーダー。アイリッシュパブが会場ではあったが,アイリッシュだったのか定かではない。まぁでもフィッシュアンドチップスもシェパードパイも食べたか。とは言えこれは広く言えばイギリスの食文化。まあいいや。

*1:美の巨人たち』より