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頼られ顔

つれづれ

先日のP会OB演奏会のレセプションにて,座り場所を求めて後輩たちが集っているテーブルについたら,タイミングの悪いことにそこでは「アヒル口」「困り顔」についての会話がなされていたのだった。「やってくださいよー」という声に応えて,衆人環視の中同期の女の子と一緒に「アヒル口」「困り顔」をやらされ,周りの人にエンターテインメントを供するという恥辱を舐めた。しかし今改めて考えても,彼らはいったい「先輩」をどう考えているのか。不遜きわまりない。ただ,そういう後輩は別に嫌いではない。
ところで「アヒル口」「困り顔」とは,みなさまご存知の通り「今流行っている顔」である。私ももちろん知ってはいたが,特に意識したこともなかった。それはひとえに,自分の顔に「アヒル口」の要素も「困り顔」の要素も皆無であると知っていたからである。しかし今回やらされてみて,改めて「アヒル口」「困り顔」を意識し,翌日まじまじと自分の顔を見てみた。案の定,どこにも親和性がなかった。それどころか,対極ですらあったかもしれない。まずアヒル口は違うとして,「困り顔」。私まゆげ上がってるし。目も決して大きいというわけではないのだが,どうも眼力(「めぢから」というか,「がんりき」の方が近いかもしれない)があるし。しかも,長らく一重まぶただったのに,ここ2年くらいでいきなり二重まぶたになったため,眼力は増している気すらする。これはどう考えても,困ってない。
それで考えたのだが,そういえばたまに「コンプレックスがなさそう」とか「悩みがなさそう」とか,大変失礼なことを言われることがある。もしかしてその何割かはこの顔に起因するんじゃないか。ついでに言えば,昔から教師や友人の親御さんなど,周りの大人のほとんどに(私の身に余るほどの)絶大な信頼をおかれてきた。こと田舎において,学業の成績がいいことはリーダー的素質の有無を測る上で大きく加味されるので(ほとんど何の関連性もないと思うのだが),とりあえず成績がよかった私はまぁそれが原因だろうと思っていた。しかし実はそれだけではなくて,この顔によるところも大きいのではないか。これは光栄なことだが,信頼をおかれてきたのは友人からも同様であって,入試の前夜には渋谷東急ホテルに宿泊していた私のところに2人から電話がかかってきた。しかも彼女らは,私と同じ大学を受ける2人であった。大丈夫だよ大丈夫だよと彼女らを励ました(自分がいちばん大丈夫じゃないよなぁ,とやたら他人事のように思った)のだが,そのとき2人(彼女ら同士に面識はない)に同じことを言われた。私に話すと,なんか安心するのだという。そうか,もしかしてあれもそうだったのか。つまり私は,流行りの顔でないのは残念だが,なんというか頼れそうな顔である。自分で言うのもなんだが。頼れるというか,こいつに任せとけば/相談すれば,まぁ何とかなるだろう,と思われそうな顔ではある。私の実際の資質がいかなるものかは別として。現に最後の例に即して考えれば,私はおそらく彼女らよりも成績が悪かったので,少なくとも彼女らは私の資質を頼ったわけではないと思う。え,もしかして「落ちそうな人」と話すことで精神状態を保とうとしたのか?こいつよりはマシだし,と。いやいやそんな悪意については考えませんよ。最悪,実際そうだったとしても,まぁ私受かったからいいじゃないの。
というわけで,いかがでしょうか。「困り顔」の次は「頼られ顔」女子。そんな時代が来るのを夢見て過ごすしかないのだが,いわゆる「モテ」顔の要素として,「守ってあげたい,助けてあげたいと思える」ことが重要であることは「困り顔」に脚光が当たっていることを考えても明らかである。それに対して,守りも助けも不要そうな外見(少なくとも外見上は)である私。私の時代はまぁ遠いであろう。