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インスピレーションはどこ?

勉強

本日もひたすらpdfを印刷しては読んでみる。切り口がなかなか見いだせなくて困っている。そんな時,テーマど真ん中の論文(要するに先行研究というやつ)を読んで得られることは多いのだけど,論文ばかり読んでいるとどうしても先行研究の手法に引きずられがちで二番煎じのようなものしか思い浮かばない。そういうわけでわたしは大抵,先行研究は批判対象あるいはオマージュ対象と割り切って,研究の手法や観点のインスピレーションはまったく別のものから得るなどということをしているわけです。生意気にも。そしてそういうものは道楽から得られることが多いので,道楽も仕事のうちと考えることにしています*1
ここ半年で言えば,カズオ・イシグロを読んだことでいろいろ世界が広がった。記憶の継承というテーマやら「わたしは気泡の中にいて世界を見ている」という作家自身の言葉もさることながら,イシグロのインタビューでインタビュアー福岡伸一が持ち出していた「動的平衡」の概念など,なかなか面白いものであるように思った。また最近は短歌に耽溺していることもあってその関係の雑誌を読んでいるのだが,その中で自分の印象に残ったものを抜粋。7月号『短歌研究』の特集「ことばは無力か?」から,外塚喬と松平盟子の寄稿。

短歌研究 2011年 07月号 [雑誌]

軽々しくは詠めない 外塚喬

9・11同時多発テロの時もそうだったが,今回の東日本大震災においても,歌人表現者として詠うか詠わないかという判断を迫られている。言葉は人と人の心をつなぐと言われるが,本当に言い切れるだろうか。被災者とある意味では傍観者的な立場の人間とでは,ものの見方も考え方も異なる。歌詠み同士で理解できることが,そのまま多くの人の心を動かすとは正直のところ思えない。<中略>被災された人たちの百分の一にも満たないような気持ちでは,事実は報告できても心を打つ作品は生まれない。遠く離れた安全な地にいて軽々しく詠むことは,できない。

晶子的美意識から遠く隔たって 松平盟子

三月十一日以来,呆然とした日々をしばらく送っていた。私の暮らす地域は被災地ではなく,目に見える範囲の何かが大きく損なわれた訳でもない。にもかかわらず,それ以前とは決定的に断絶した時空間にこれからの私たちは生きねばならぬのだ,と感じた。選択の余地無く,意味を問うことすら無意味な状況下に唐突に入ったということ。それをどんな言葉で捉え,表したらいいのだろうか。
与謝野晶子関東大震災被災し「休み無く地震して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街」「わが都火の海となり山の手に残るなかばは焼亡を待つ」(『瑠璃光』)などと詠んだ。幸い晶子の家は焼けず家族も無事だったが,繁栄する帝都が真っ赤に焼け広がるのを衝撃をもって眺め,越年後の厳寒の中にあっては廃墟と化した街を極限的にして凄まじい美と捉えた。
しかし原発事故を抱え込んだ今,私たちの日常はどう取り繕うとも晶子的美意識には辿りつけない。その覚悟から詠むしかない。

こうした物事をいろいろ頭の中で照合した結果,わたしの興味関心が見えてきた気がいたします。たぶんわたしは,「当事者意識」と「非当事者意識」のどちらにも属さない/どちらにも属するという状況下で,人がどのように現実と対峙するのかということにひたすら興味があるのだと思う。この興味自体は昔から持ち続けているものなので,あとはこれをどのように丸め込んで論を立てるかということと,先行研究やら進行形の研究との整合性ということになるでしょうか。
わたしはTAとして「研究テーマは'Because I'm lovin' it'で選んでよいものではない」とのアドバイスをしたと以前こちらにも書いたが,そうはいっても多くの研究者の原動力は'I'm lovin' it'である。しかしそれでは職業的研究者としてやっていけないのできちんと正当性を見出さなければならないのだが,これがなかなか難しい。いつも思うけど。

*1:そういえば以前,友達と話していて「オンとオフの区別はあるか」という話になった。わたしは「ない」と即答した。ないんですよね,良くも悪くも。