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ラブ・ケミストリー

読書

ラブ・ケミストリー

ラブ・ケミストリー

それにしてもこのタイトルの恥ずかしさよ。みなさま,試しにご自身の専攻分野で作ってみましょう。ちなみにわたしの場合「ラブ・ヒストリー」わわっ。しかし例えばこれが「ラブ・マセマティクス」とか「ラブ・アンスロポロジー」とかの場合,ちょっとかっこいい,気がしませんか。しませんか。そうですか。ちなみにこちら,もともとのタイトルは「有機をもって恋をせよ」だったそうで……うん,言いたいことはわかる。わかるんだけど。
このミステリーがすごい!」受賞作です。作者は徳島県出身東京大学大学院薬学系研究科修士課程修了(あら?)。これが店頭に並んだころ,へー,京大ものは多かったけど(森見とか万城目とか)東大ものって珍しいなと思い,さっそく図書館に予約をかけてそれなりの人数を待ち,ようやく最近順番が回ってきたのだが,読んでいて気づいた。「東大もの」,別に珍しくなかった。それどころか古典じゃないですか。『三四郎』とか……。
うん,まあまあ面白かったのですが,まずは「ミステリー」にジャンル分けされるのか?これは。とりわけ解くべき謎もなかったように思うのだが。謎があると言えばそれは何度か差し挟まれる「ダイアローグ」において,主人公藤村桂一郎の「失われた能力」(天然物の構造式を見るだけで最適な合成ルートが閃く能力)を取り戻せるようにと「死神」カロンに頼んでいる人物が誰なのかということなのだが,結構これがわかってしまうのである。というか,せっかく途中まではミスリーディングをさせるような書き方がなされているのに,物語中盤で「あ,これはミスリーディングで,この人じゃないんだな」とはっきりわかってしまうような記述がばっちり表れてしまうので,じゃあこの人とわかってしまう感じ。終わり方も「どんでん返し」というよりは「えー(驚愕ではなくどちらかというと不満の方で)」という感じの強引さ―これはデウス・エクス・マキナと呼べるのだろうか?―なので,なんというか,狐につままれたというか,いやそれだとちょっと褒め言葉すぎるかも,とにかく「ここまできてこんな終わり方かい」とがっかりすることは,間違いないとまでは言えないにしてもあるのではないか。
しかし女のわたしがこういうことを言うのもなんだが,非常に「男の子のファンタジー」っぽいなと思った。それを発揮することによってノーベル賞獲得も夢ではないような唯一無二の才能(これってあまり女性作家の作品には見られない気がする)を生得している主人公,「腰まで届きそうな漆黒の髪,大胆に足を露出した現代風の真っ黒な和服,病的なまでに白い肌」というような限りなく二次元的特徴を持つカロン,主人公の片想い相手である研究室の秘書・真下美綾さん,恋をしたら全力で協力してくれる周りの友人たち,などなど。おまけにストーリー展開はまるでジブリアニメである。「空から降ってくる」ようにして藤村くんの前に現れる女性たち(カロン,美綾さん,もうひとり)もさることながら,藤村くんの指導教官であるところの神崎先生,美綾さんの祖母であり「アグリバイオの分野じゃ日本でも五指に入る大企業」である「マシタ化学」の会長である美鈴さんなど,まさにドーラである。ちなみに神崎先生には業界の人ならだれでもすぐに思い当たるようなモデルがいらっしゃるそうです(作者は否定しているようだが)。「横幅がまったくデカイ」「同年代の女性二人分くらいはあるかもしれない」「大学時代,柔道にのめり込んでいたそう」「彼女は非常に優秀な研究者でもある」「まだ准教授だが,三十代で自分の研究室を持っているのだ」「もう二十年もすれば,学部長になっていたっておかしくはない」だそうです。わたしには見当がつくはずもありませんので,同業の方は考えていただけると面白いかも。
あら,面白かったと言っている割になんだかひどい言いようになってしまったが,エンターテインメントとしてはやっぱり冒頭に書いた通り「まあまあ面白い」です。評判を見てみる限り,化学系の方々に特に受けがよろしいようです。なんといっても作者の出自が冒頭に書いた通りなのでリアリティは抜群なのであるが。それにしても「研究室の描写など,アセトンの香りが漂ってくるよう」という賛辞を見た時には感動した。読者を無視するかのごとく連発される専門用語について「まったく化学を知らない人にはこれでわかるのか心配」というような声もあったけれど,まぁ別にストーリー展開に関係があるわけでもないので,素人のわたしにも問題ありませんでした。瀬名秀明の小説を読んでいたころを思い出しました。「プラスミドの電気泳動」とか出てきたなぁ。しかしそのころわたしは高校で生物をやっていたので,次元は天と地ほども違っても「まったく知らない」わけではなかった。それに比べてこちらに関しては,確かに専門用語はまったくお手上げであった。ちょこっと引用してみよう。

「あ,ノシル基の脱保護はうまく行ったんだね」
「はい,藤村さんの言う通り,チオフェノールを使わなくても,スムーズに反応が終わりました」
(41-2頁)

たまーに

「実験台のもう一方の端には,ロータリーエバポレーターが設置されている。コイツは,容器内部を減圧することで沸点を下げ,常圧より低い温度で液体を気化させるマシーンだ。気圧の低い富士山の山頂において,約九〇℃で水が沸騰するのと同じ原理だ。」(40頁)

など,おそらくご自身はものすごくものすごくものすごーく噛み砕いたのであろうご説明が表れたりするのが微笑ましい。一般のお客様を前にした研究者だなぁと(これは広義の同業者の視点で)思う。ナイスアウトリーチである。しかしこういう努力はほとんどの場合徒労に終わるものである。だってまず「減圧」「常圧」がイマイチよくわからん。イメージはなんとなくできるけど,間違っている可能性も高い。ちなみに主人公藤村くんの現在の研究テーマは「プランクスタリンの全合成」です。なんかよくわからんけど化学界のフェルマーの最終定理なんですって?
そういうわけで,わたしが引用した部分を見て震えるほど興奮し,思わず「声に出して読みたく」なってしまった有機化学関係の方はもちろん*1,エンターテインメントを求めている方もどうぞ。

北大のグッズショップで迷わず購入した鈴木カップリングクリアファイル。いいでしょう。あげない。

*1:ちなみに歴史をやっているわたしは『マンチュリアン・リポート』を読んだとき「寺内正毅内閣が段祺瑞政権に与えた西原借款」(といった旨の記述)に鳥肌が立って何度か朗読しました。そしてそれだけでは飽き足らず,中国史をなさっている友人に聞かせて2人で興奮しました。