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子曰く

つれづれ

ピアノのレッスンのあといつものように先生とお話をしている中で,ちょっと悶々としていたことを先生に聞いていただきたくなり,思わず吐露してしまった。
端的に言えば,結構な程度人のお手伝いをした(少なくとも自分ではそう思う)にも関わらず,こんな言葉を使いたくはないのだがその「見返り」が乏しく,脱力せざるをえなかったということ。しかも「見返り」とはいえ,別に金品を要求しようとかそんなことは毛頭考えておらず,ただ,その後どうなったかを報告してほしかったのであった。「ほしかった」というか,結果がよければ当然うれしい報告が聞けるだろうと期待していたのである。それが待てど暮らせど何も聞こえてこない。言ってこないってことはダメだったのかなと長らくこちらが気を揉んでいたところへ,最近ようやく,それも人づてに,結果を聞いたのであった。気を揉んだのもなんのその,結果は望みうる最高のものであった。え,そうだったの?と拍子抜け気味に本人に確認すると,「あー,あんときはありがとーございましたー」みたいなことを言われ,あんたね結果が出たんならそう言いなさいよ,と注意する気も失せてもはや放心してしまったのであった。しかもこれ,恐ろしいことにこれが初めてではなく,もうこれは私の考え方が世間にそぐわない古いものになってきているのだろうと無理やり思うしかなくなってしまった,そういうもんなんでしょうか,納得もできないし疲れるばっかりなんですけど諦めるしかないんでしょうか,と。それに対しての先生の答えは以下のようなものだった。

まぁ,その相手にしてみれば,そこにあったものを便利に利用したって,きっとただそれだけのことなのよ。それはもう,人の考え方だからどうしようもできないわよね。そういうもんなのよ。私もそういうことはよくあるから,もう人に何かする時には見返りは期待しないことにしているのよ。正しいとか正しくないとかじゃなくて,そうしないと身がもたないから。
でもそうやって心が冷めていくのも寂しいものよね。だからね舞ちゃん,そんな時は,少なくとも自分は自分のできる限りのベストを尽くした,って思っておけばいいのよ。そしてこれからもそうすればいいのよ。それで相手がそれをどう受け止めるかは,また別の話ね。

思えば昔から,友人からはお人好しだの人に入れ込みすぎるだのと苦言を呈されるし,自分自身でもそう思う(人のことを放っておけなくて結果的にバカを見ることが多い)のだが,かといって人を助けても自分が損をするだけだから今後一切そういうことはしない,というのも違う気がして悩んでいたりもしたので,先生のこの言葉はずいぶん救いになった。また同時に,自分自身についても,困った人を見ると何かしらしなければ気が済まないのはもはや「性分」であるくせに,その見返りがないことを少なからず不服に思うというのはなんという了見の狭さか,結局は「人を助けている気高い自分」が好きなだけなんじゃないかという,いわば見たくもない自分のエゴを眼前に突きつけられるような感覚にも割と苦しんでいたので。いっそ聖女のようになって「無償の愛」を自然に行えるようになるか,それとも完全に他人に対して無関心になって自分の得にならないことは一切やらないか,どちらかであれば楽だろう。しかしやはりそこは凡庸な人間であるので,困った人を見れば助けたいし,そういう自分が好きであることも事実だし,かといってそれがきちんと評価されなければ悔しくもあるし,そんな自分が非常に矮小にも思えるし。そういうもろもろの思いに対して,「少なくとも自分はベストを尽くしたと思えるようにすればいい」という答えは特効薬のように響いた。
「誠実である」というのは,単に正直であるとか人に対して思いやりを持つとか,そういうこととはまた別の次元の難しさがあるような気がする。でも基本とすべき考えは,たぶん誰よりもまず自分に対して恥じることのないように,ということなんだろうと思う。自分だけは正しいというような考え方ではなくて,結果的に成功であれ失敗であれ,損であれ得であれ,そのとき目の前にある物事や人に対して真剣に向き合うということは,これからも意識していたいと思う。