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あの日は まだ六等星だった

昨日の日記から追記という形になるかもしれないが,タイムリーに「リケジョ」が世間を賑わしているようだ。それも,いい意味と悪い意味の両面で。いい方では,小保方晴子博士のSTAP細胞のニュース。小保方博士は30歳とまだお若い方である上に,実験時の服装が割烹着であったり,研究室がガーリーであったりするというのが注目されているらしい。そして悪い方は,そういう風に「リケジョ」のいわゆる「ジョ(女)」の側面をクローズアップする日本の報道はどうなんだという意見。「ゴシップ紙並み」という手厳しい意見もあるようである。

以下はどうやら自分の意見がマイノリティかつ保守的という謗りを受けかねないことを承知の上で書くが,私自身は「リケジョ」ではないけれどもアカデミアの世界におり*1,またこれからもいることを望むものとして,率直に言うと,この報道になんら違和感は覚えない。認めているのではない。当たり前じゃないかということである。

まず「理系女子」という言葉自体,「女性」と「理系」の組み合わせがある種の奇異さを伴っている前提であることは明白な事実であり,それを今更「女性差別的だ」とか言って騒ぎ立てることにこそ私は違和感を覚える。理系の女性や研究職の女性が少ないことも,その活躍の場が限られていることも,今の日本における現実であり,それがそのまま「リケジョ」という認識に表れているという,ただそれだけのことではないか。こうした批判は今が「啓かれた時代」であるという誤解に基づいたものであり,女性研究者なんてまだまだフロンティアである。それは言葉の使い方を正したくらいで改善されるような甘いものではない。これはたとえば「ワーキングマザー」だってそうで,「働く母親」を指すキャッチーなフレーズができたからこそ,その存在に注目が集まり,そうして初めてその待遇や現状に目が向けられるという事例も過去多いのだ。

さらに,小保方博士ご本人の紹介のされ方。上述の通り,「割烹着姿での実験」や「ガーリーな研究室」「デートの時も研究のことを考えていた」など,博士の「女の子」な側面をクローズアップする報道についてだが,これは「成し遂げられたこと」よりもまず「人」の方を大きく取り上げ,次いで「成し遂げられたこと」の方に焦点を移していく日本の報道のあり方が表れているという方が真に近いように思う(好意的過ぎるかもしれないが)。まず何より,日本ではアカデミアが程遠い場所にあり過ぎるのだ。それをまず身近なところに持ってきて「研究者といえど恋もすれば可愛いものも好きな普通の女性」として紹介したところには,私はむしろ感謝すらしているといっても過言ではない。研究をしていると告げた時,相手が男女問わず一気に私のことを「違う世界の生き物」として認識する感じと言ったらない。それに研究者の立場からすれば,自分のやっていることに興味を持ってもらえるのなら,入り口なんてなんでもいいのだ。たとえば私だったら,自分がもし将来なにかしら成し遂げて報道されるとき,「○○さんの趣味はピアノで,留学先のアイルランドではスカッシュライフル射撃に熱中し,さらに筋金入りのジャニオタ」とか言ってもらえたらむしろ光栄にすら思うだろうが(……とここまで書いて気づいたのだが,「普通の女性」像と程遠かった)。研究者はみんな,髪振り乱して研究していなければならないのか?少なくとも私の同期の博士課程の女の子たちには趣味や特技を持ってキラキラしながら研究している子が多いし(同期のメアリーは研究の傍らフィドルの演奏活動もして,さらにサーフィンもフルマラソンもやりつつ,本業はおろそかにしないどころか賞まで軽々と取ってしまう,まさにスーパーガールである),それにそういう子の方が,研究を生き生き楽しんでいるように見える。もちろん私も,そうでありたいと思っている。研究者として「恋もすればかわいいものが好きな普通の女の子」が異色なのであれば,ますますこうして取り上げられることには意味がある。

要するにすべて逆手にとってやればいいのだ。そりゃ,研究会や学会で「女の子なのに偉いね」「よしよし」という扱いを受けたりするのは気分のいいものではない。でもかといって,アカデミアだってそんな幼稚な世界ではない。黙ってちゃんとした研究をしていれば,ちゃんとひとりの研究者として扱ってもらえる(それでキーキー言ったり妨害してくるような人間は放っておけばそのうち消える)。女性であることでハンディを負うのであれば,男性以上に努力して男性以上の成果を出し,認めざるを得ないようにしてやればよい。成果こそがすべてであって,それは男性も女性も変わらないし,またどの世界でも同じことだと私は思っている。個人的には,最初から期待されているより,見下されているのを見返す方がわくわくしますけどね。こいつどんな顔をするだろうと思うともう。(こうして私の性格の悪さが露見するのだ)

まぁ何が腹立たしかったって,要は「世界ではこうなのに日本はまあ遅れていること」というような,リベラルを気取った,かつ見下した書きぶりが私は大嫌いなのである。これはたまに留学生にも見られる態度だが。良かれ悪しかれ,日本の現状というものがある。それをちゃんと前提として受け止めた上で建設的に意見を述べなければ。批判のための批判は何も生み出さない。

さて,発表原稿を何とか仕上げてメアリーに校正を頼んだので,ちょっと頭を冷やすために別のことをやろう。博論の本体を書くとか。そして夜は,昨日から決めているが,KAT-TUN魂のDVDを見るのである。なぜいきなりKAT-TUNか。私は最近,今更妹が勝手に入れた『楔』をしっかりと聞いたのだが,なんというか,4人になってからというもの,聞くのがものすごく辛い。深読みしすぎだとわかっていても深読みしてしまう。「現実はUPSIDE DOWN」ってまさか。「信じる胎動 信じたい鼓動 咎めないで きっと過去へ2度と戻れはしない」ってまさか。『4U』の「あの日は まだ六等星だった」の「六」とはひょっとして。辛い。辛すぎる。もう『不滅のスクラム』なんて聞けない。『CHAIN』で「来年は2時間MCやろう」とか言っているのも胸を締め付けられる。でもこの悲壮感。悲壮,つまり「悲痛な気持ちを内に秘めた勇ましさ」。それが今のKAT-TUNを形容するのにふさわしいように思えてならない。「不確かなこの街で 埋もれかけていた この絆1つ以外 何もいらない」これはもはやファンへのメッセージでしょう。私も妹の影響ではあるが,KAT-TUNとは短くない付き合いだし,ライブにも1回参戦して「We are KAT-TUN!」と叫んだ者として,いや,「ハイフンのひとり」として,傍観しているわけにはいかない。本業ではないが,私は新生KAT-TUNを全力で応援します。後ろで踊っているキスマイも見たいという邪心もあるが。持ってきているDVDはBreak the RecordsとNo More Painの2つ,さてどちらを観ようかしら。あ,CHAINもあったのにキスマイが出てない理由ですっかり頭から抜け落ちていた!あのアルバムもライブも好きなのに!

*1:ちなみに戦国武将にも幕末志士にも興味はないし,まして男色にも興味はないので,歴史学をやっているけれども「歴女」ではないようです。