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空にあこがれて

ようやく『風立ちぬ』を見た。

難しくて消化するのに時間がかかった上に,第一印象として私はあまり好きではなかった。全体的になんだか,押しつけがましい気がした。宮崎駿の集大成というだけあって,彼の映画観やアニメ観などがすべて詰まっているのはよくわかるし,第一自叙伝的な作品に対して「押しつけがましい」とか「自己満足」とかいった批判がふさわしいのかどうかはわからないが,それにしても「今まで俺がやってきたことで傷ついた人も犠牲になったものも多かっただろうけど,でも俺楽しかったし,第一俺いいもの作ってきただろ?そうだろ?」と面と向かって言われるような,そんな腑に落ちなさが感じられた。卑近な例えで申し訳ないが,例えば別れた恋人から「いろいろあったし結局こうなったけど,でもお前との時間は俺にとって必要なステップだったぜ☆サンキュ☆」と言われるような,思わず「はぁ?」と言いたくなるような,そんな感じとでも言おうか。

というのがこの映画って,二郎さん(つまり,一部の天才)に感情移入するか,もしくは菜緒子さんに代表される「二郎さんではない人」(天才ではない多くの人)に感情移入するかでだいぶ印象が違うと思うのだが,私は完全に後者の側で見たのである。そしてこの映画はすべて二郎さんの「希望的観測」によって成り立っているので,自分たちが夢を追うことについて菜緒子さんをはじめとする周りは当然温かく見守ってくれている,という大前提に基づいている。

……でも本当にそうなのか?

二郎さん,「美しいものが好き」と言えば聞こえはいいが,好きというか美しいものしか見ていない。たとえば作中で取り付け騒ぎの様子も描かれるし,貧しい子供たちと触れ合ったりもするのだが,二郎さんがそのことについて真剣に考えたりはほとんどしない。菜緒子さんだって深く愛されているようには見えるけれども,要は二郎さんの美のイデア的な存在なのであって,おそらくは男女問わずの幻想であろう「私の外見だけじゃなくて内面を好きになってほしい」は全く満たされていないと思う。そしてその「美のイデア」たることは皮肉にもというかなんというか,菜緒子さんが結核を患っていて死にゆく存在であるということによってより強められている。女性の美しさは常に死への無力さと分かちがたく結びついていて*1,それは死に向かって突進していく存在である戦闘機への執着とも似通ったものがある。

これはアカデミックな視点から言うのだけれども,この物語は戦闘機の完成が菜緒子さんの死を表している ことに象徴される通り,男のロマンのために女が犠牲になるという話でもある。男のロマンを支えるために女はいつも美しく装い,「綺麗なところだけを見せて」死んでいかなければならない。これって,フェミニズム批評的にどう解釈されるのでしょうか。上述した,死にゆく存在だからこそ美しいという点ともつながると思うが,菜緒子さんに一瞬だけ芽生えた生への意志は,二郎さんの美への執着によって失われる。「それはお前のエゴじゃないのか」という黒川上司の言葉について,二郎さんは特に何も言わない。おそらく図星で気まずいのではない。ここでも二郎さんは,自分に都合の悪いことは聞こえていないのである。

そして冒頭に戻るのだが,一番納得がいかなかったのは結末で,上のもろもろのようなことを踏まえても,最後にたとえば二郎さんがひとりでたたずんで過去に想いを馳せつつ静かにユーミンが流れ出す,といったような感じであれば私も納得できたかもしれない。なのに,なんかふわっと「終わりよければすべてよし」とでも言わんばかりの終わり方で,それはどうしても釈然としない。宮崎駿の走馬灯みたいな作品になっているけれども,それを見るこちらの立場にもなってほしい。我がアニメ人生に一片の悔いなし,いやそれはよくよくわかったけどさ。だからといってその「天才は何してもいいんだ」というような傲慢を思いっきり開き直られても。

そういうわけで,私にはまぁ1回で十分かなと思われる映画でしたが,でも見終わった後もやもやと考えるのはとても楽しかったし刺激的だった。上のぐちゃぐちゃな感想からも明らかな通り,まだ考えがまとまっているとはとても言いがたいので(ほかにも考えたいことはいっぱいある),考えがまとまったらまた見たくなるかもしれない。

*1:ちなみに私は「たとえ植物状態になっても絶対に延命治療を止めないでくれ」と家族に頼んであるほど生に執着しています。