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公的史料の可能性:図書館史の場合

いやー,昨日見つけたのはとてもいい論文だった。前の論文紹介でも書いたのだが,図書館の貸出記録のような公的記録は確実にメインの史料になりうるが,その反面で貸出記録はただ貸出の事実を告げるものでしかないため,

 貸出記録が(1)貸し出された本が実際に読まれたかどうか,(2)借主以外の人物によっても読まれたかどうか,(3)読者がどのように反応したか,などまでは明らかにできないという史料的制約を持つ<後略>。

 (自分の文章引用するとか,気がふれているとしか言いようがないけれども。)今回もその限界は踏まえたうえで,その中でできることを最大限やっている感じ。これも前の論文紹介で書いた通り,だからこそ日記とか書簡とかみたいな私的史料を補完的に用いることがどうしても必要になってくるのだが,今回の論文ではワーキングクラスの女性に焦点を当てられていることもあり,それはなされていない*1。しかしそれでなお,ここまでできるのかと目を瞠った。史料的限界だなんて言い訳はもう通用しなくなってきたのですね。でもこうやって研究が塗り替えられていくことも,自分の言ったことの反証となるような研究が現れてくることも,どちらもとても清々しくうれしいことです。図書館史も読書史も確実に波が来ている。私もがんばらないとなぁ。

ひとつ残念だったのは,この論文の結論が今までに述べてきたことの要約スタイルでしかなかったこと。慎重な態度と言えば聞こえはいいが,せっかく読んできたんだし,それだけかよという気になってしまう。これは完全に好みの問題になるだろうが,私はあんまりこういう要約「だけ」スタイルは好きではない。要約したうえで,なにか展望なりこの研究が持ちうる意義なりを(直接的でなく)書かないと。読者の立場になるとよくわかるのだが,うっかり反復して書いていることに対して読者はものすごく敏感に辟易する(それはさっきも聞いたよ,と)。

しかし午前中からいい論文を読んだので,今日は1日ずっと清々しい気分だった。いいですねこういう日は。

*1:そうか,私的史料を使わなきゃなんて書いたけれども,それ自体が対象とする階級を制限することにもなりうるのか。ワーキングクラスの女性は日記も書簡も書かないし,書いたとしてもあまり残っていないだろうし,ましてや公刊されないだろうし。重要なことに気づいた。