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Ballyturk

Ballyturkは懸念していたほど疲れることはなく,それどころかとてもおもしろく観劇できた。今まで古典劇(と言っていいのか)ばかり観ていたので,英語の不安もあって観る前には台本を読んで予習をするのが普通だったため,何の予備知識もなく観劇するのはこれが初めてだった。そして観た後も余韻がものすごく強く残り,ふわふわ悶々と考えながら帰って,思わず赤ワインをあおる(なんか飲まずにいられなかった)くらいにはわけのわからない作品だった。

筋は本当にあってないようなもので,よくわからない部屋(60年代か70年代くらいの内装)に2人の男(キリアン・マーフィーとマイケル・マーフィー)が住んでいて,毎日毎日同じような生活をしている。2人は独白のような長台詞の掛け合いを繰り返すのだが,話していることの大半は特に意味もないことで,特に気合いを入れて理解するとかそういうことはしなくてよさそう。物語の中盤で,「外の世界」から第3の男(スティーブン・レー)が現れる。この男は2人のうち1人を「外界」へと誘い出し(ただそれも「私と一緒に12秒間外を歩く」という奇妙なもの),もう1人は死ななければならないと宣告する。だいたいこんなような感じ。

観ながらずっと『ゴドーを待ちながら』を連想していて,しかしそれは最近ちょうどよく『ゴドー』を観たからなのかと思っていたが,The Guardianの劇評でも『ゴドー』が引き合いに出されていたので,あながち間違ってはいなかったらしい。『ゴドー』は「何もない」日が2度起こるが,Bullyturkではこの「何もない」日が何度か繰り返された後にいきなり第三者が闖入して風穴があけられる。もしかしたらこの「第3の男」は「ついに現れたゴドー」とも言えるかもしれなくて*1,『ゴドー』でもしゴドーが現れていたらこうなっていたかもしれない,と考えさせられた。ただ,もしこの第3の男がゴドーになぞらえられるとしたら,結局はゴドーが現れても何も状況は変わらず,閉塞のループは続行されるということが暗示されていることになって,かなり絶望的である。特に現代アイルランドを表彰するうえでこの「閉塞感」はキーとなるであろう(それこそジョイス以降は切っても切り離せないほど)ことを考えれば,この劇は一見難しくてめちゃくちゃなようにも見えるが,架空のアイルランドの町Ballyturkに代表されるような閉塞した状況下で生きていくしかない人々の葛藤を描いたものとシンプルに読み解くこともできるのかもしれない。おそらく最後に宣告される「もう1人は死ななければならない」は肉体的な死というよりも,毎日がこのまま変わらないという絶望(つまり精神的な死)を意味するのだと思う。

よくわからなかったのが,最後の最後にいきなり部屋に入ってきた少女。彼女は何なんだろうか。こればっかりは考えても考えてもまだわからない*2

*1:The Guardianの劇評ではこの第3の男は「煙草を吸いながら現れるデウス・エクス・マキナ」と呼ばれていた。

*2:8/24追記:この少女について専門家の先生にご意見を伺ったら,おそらく『ゴドー』の各幕の最後に現れる使者の少年になぞらえたものではないかとのことだった。つまり,『ゴドー』ではこの少年が2人の浮浪者に「待つ」という行為を再び始めさせる役割を持つが,おそらくこの少女も「同じサイクルがまた始まる」ということを暗示する役割を持つのだろうと。しかしここで出てくるのが少年ではなく少女であるところが興味深いとのことだった。