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芥川賞受賞作・小野正嗣『九年前の祈り』

文藝春秋3月号に載っている芥川賞受賞作『九年前の祈り』を読んだ。*1

文藝春秋 2015年 03 月号 [雑誌]

文藝春秋 2015年 03 月号 [雑誌]

 

 まず思ったのは,フランス現代文学の影響がかなり強い作品であるということ。数年前の受賞作である朝吹真理子『きことわ』もそうだったが,「意識の流れ」の手法は本作でも明らかである。物語を構成するピースは主人公さなえの記憶の断片であって,中には「さなえの記憶の中の元恋人の記憶」や「さなえの記憶の中のみっちゃん姉の記憶の中のごみ収集人の記憶」まであるため,読んでいて頻繁に混乱する。記憶と時系列は自由自在に行き来し,また何層にも折り重なっている。さなえが直面する様々な難局において,そこで発せられた言葉をもとに9年前のカナダ旅行の中での似たような場面を思い出すというあたりは,まるで『失われた時を求めて』を彷彿とさせた。

それにしても,コミュニケーション技術が高度に発達した現代,逆にコミュニケーション不全がキーとなる作品が多く発表されるというのは時流を反映していることでもあり,また皮肉なことかもしれない。物語中では様々なディスコミュニケーションが描かれる。まず,さなえとさなえの母の考え方の違い。さなえの母は田舎の人間らしく旧弊な考えを持つ人間であるが,35歳のさなえはこの母と理解し合おうとする努力をすでに放棄している。それからさなえとさなえの息子・希敏(けびん)の間のコミュニケーション不全。発達障害を持つ希敏は言葉を発さない上,少しでも環境が変わったりして混乱すると「引きちぎられてのたうち回るミミズのように」なり,母であるさなえにも手がつけられない。また,そうしたコミュニケーション不全を象徴するものとして,本作では「言葉」および「言葉の使い方」がわかりやすく鍵となっている。日本語と英語もそうだが,東京で8年間カナダ人男性のフレデリックと同棲したさなえが東京の言葉を話すようになったために地元の人間からは「気取っている」と言われていたり,さなえもさなえで,母や地元の人間の無神経さを「聞こえるのもかまわず心に浮かんだ言葉をそのまま口にして頓着しない」と疎ましく思っていたり(434頁),さなえとフレデリックの間に生まれたハーフの息子希敏は先述した通りそもそも言葉を話さなかったりと,もともと人間のコミュニケーションを円滑にするものであるはずの言葉は,この物語では逆に障壁として描かれている。

だが一方でコミュニケーション不全は幸いなものとしても描かれていて,それはさなえの脳裏に去来する9年前の町内カナダ旅行の思い出の描写において顕著である。さなえの道連れである町内のおばちゃんたちは,海外で言葉が通じないのを幸いに(「どうせ聞こえてもわからないと大きな声で言った」432頁),これまた田舎の人間らしく思ったままのことをあけすけに口にする。たとえばケベックの郷土料理を見て「泥水っちゅうか腹でも下したときの大便のよう」などと言うし,その店のウェイトレスについては「立派な尻じゃのお」と口走る。のちにさなえの同棲相手となるフレデリックが現れたときには「若はげじゃのお」などと面と向かって言うので,失礼なことこの上ない。こうした表現には,海外に住んでいる人間としてかなり背筋が凍った。*2しかし,こうしたおばちゃんたちの無神経ですらある発言は,9年後のさなえにとって心の支えにもなる。さなえは希敏が飛行機の中で泣き叫んだ時,カナダ行きの飛行機の中でも同じように赤ん坊が泣き叫ぶのを耳にし,それに対して町内のおばちゃんのリーダー格である「みっちゃん姉」が「子供は泣くもんじゃ」と母子をかばうのが聞こえたことを思い出す。それはさなえにとって大きな安心材料となる。その記憶自体はさなえの思い過ごしであったかもしれないことがのちに明らかになるのだが,人と人との間で思いや考えが完璧に共有されず,記憶すら曖昧なものであるということは呪いでも救いでもある,ということがここから読み取れる。

個人的に一番興味深かった作中人物は,JETプログラムで来日しており,さなえたちをカナダへと誘うことになるカナダ人,ジャック・カローであった。彼は「日本語はあまりうまくなかったが,それは標準語に関してであって,方言はたちまち上達した」とある通り,普段地元の方言を流暢に話している。しかしカナダ旅行の最中,おばちゃん2人が団体からはぐれてしまうというハプニングが起こる。その時だけジャックは標準語で話すのである。

ジャックがみんなに言った―驚いたことに,お得意の海辺の町の方言ではなかった。

「わたしが探してきます。フレデリックと一緒に待っていてください」(440-441頁)

 とても印象的な場面である。なぜ,ここでジャックは標準語を話したのか。単に非常事態を受けたため,思わずフォーマルになったとも考えられる。しかしわざわざ方言を話しているという設定のジャックがここで標準語を話すのに,作者が何も意味を持たせなかったとは,個人的には到底考えにくい。日本語と英語,標準語と方言,すべてを使うことのできる作中人物は,この時点ではジャックだけである(当時,さなえは東京に行く前なので方言を話している)。多言語共存社会であるカナダから来日し,方言を話して地域に溶け込み,さなえ達をカナダへ連れて行く(さなえとフレデリックが出会うきっかけにもなる)ジャックは,彼我の言語世界を自在に行き来できるという意味において異界の存在であり,作中でジャックがたった1回だけ発する標準語はデウス・エクス・マキナのような働きを持って物語をクライマックスへと導く。

そして多少ありきたりなようにも思えるが,安っぽいハッピーエンドにすることもないオープンエンディングな結末には,不思議な安堵感がある。

いま悲しみはさなえのなかになかった。それはさなえの背後に立っていた。振り返ったところで日の光の下では見えないのはわかっている。悲しみが身じろぎするのを感じた。それは身をかがめると,さなえの手の上にその手を重ね,慰撫するようにさすった。不安は消えなかった。息子の手はひんやりと冷たかった。だからさなえは手に力を込めた。(447頁)

 悲しみも不安も,強く克服されるわけではない。しかし「それは身をかがめると,<中略>慰撫するようにさすった。」という表現にも明らかであるように,必ずしも悪いものではなく,これからシングルマザーとして地元で生きていくさなえを励ますものでもあるのである。そしてこの,悲しみや不安と共存していくことこそが,さなえの強さになっていくのではないか。

これを何度も読み返すかと考えれば,そうでもないかもしれない。しかしこれはあらゆる意味で「祈り」と「救い」の物語である。私たちも生きていくうえで,不安は尽きない。だから手に力を込める。それが小さな無力な手であっても。

*1:文藝春秋は先週母と妹がダブリンに来た時に持ってきてもらった。

*2:言葉が通じなくても,失礼なことを言われているというのはだいたい伝わるものである。あとまだまだ浸透していないようだが,「外人」は明らかな差別用語です。