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恋と史料調査においてはすべてが許される

突然だが,私はジャニーズの公演のチケットを取るとき,人海戦術のようにしてとにかく名義を増やしたり一般で友達に協力を頼んだりしてチケットを取るやり方が,たいていの場合において個人的にあまり好きではない。簡単に人間関係が崩れるからだ。とはいえ私自身も,そういうもんなのかと思ってこの前の『新春ジャニーズワールド』公演の時の「帝劇枠」にキスマイ好き仲間3人の協力を仰いだが,私自身のも含めて見事に全滅であった(会員枠で取れた)。しかし協力を頼む際には恐縮なあまり何度も何度も謝ったし(彼女らは快諾してくれたが),別に悪いことをしているわけではないとはいえ非常に後ろめたかった。だから結果として,これでよかったと思っている。もし今回この方法でチケットが取れていたりしたら,おそらく私は次からもこの方法をとっただろうし,もしかしてもっと人数を増やしたりしたかもしれない。恐ろしい。自分が協力する側である場合も,とても仲のいい友達が切実に呼びかけている場合だったりしたら自分から声をかけて協力したりすることもあるが,向こうから声をかけてきたりされると,正直に言ってちょっとがっかりする。この人は私の名義も自分の手札として当たり前にカウントしたんだな,という気がするので。目的のために手段を選ばないというのも時と場合によると思うし,ルールとモラルの範囲で手を尽くして,それでもチケットが取れなければ潔く諦められる大人のジャニオタでありたいものだ,と私は常々思っている。

ところで話は変わるようだが,私はここ数日,史料調査の許可を得るためにドミニコ会系の女子修道院にこれでもかと連絡している。まずメールを送って自己紹介し,どんなことを研究しているか述べ,こういう史料をお持ちでないだろうか,ぜひ文書館を訪ねさせていただけないだろうかとお願いする。これが第一段階。で,メールにはほとんどの場合返事が来ないので,第二段階として直接電話をすることになる。私はここでも大概の場合,ぞんざいな扱いを受ける。そもそもこんな代表の電話番号に出るような人は大抵嘱託の事務職員なので,あまり勝手がわかっていないことが多い。ああ,あのメールね,見ましたよ,わかりそうな人に転送しておいたからその人から連絡があると思うわ,じゃあね,と切られそうになるのを「ちょっと待って!」と必死で制し,文書館,あるんでしょ,あるんですよね,と食い下がる。ひどい場合には「文書館なんてない」とか「そんな史料ない」とか言われる。嘘つけ。私は二次文献の脚注でも参考文献表でも見たのだ。でも電話の相手は本当に知らないのだから頑として譲らない。私がここ数日繰り返しているのはこんなことである。そこにないなら,ありそうなところの連絡先を教えてくれたりすればいいのに,なぜかこちらの人はそれをしないのだ。だから私は片っ端から連絡していくしかないのである。歴史学とはまことに実用的な学問だ。英語でゴネる技術が身につくのだから。

で,その連絡の過程で,今まで知り合った人々や,あるいは論文の著者の名前が脳裏をよぎる。もしかしてあの人に相談したらとか,この論文の著者はメールアドレスを載せていたからメールしてみればいいんじゃないかとか,選択肢がいくつも思い浮かぶ。八方手を尽くして,それでもダメなら諦める?冗談じゃない。これが手に入らないと第3章が書けないのだ。これが手に入らないと博論が完成しないのだ。諦められるわけがない。どんな手を使ってもたどり着いてみせる。ルール?モラル?知るか!

そのような状態でもはや般若の形相(たぶん)の私にふと思い浮かんだのが,冒頭に書いたジャニーズ公演のチケット入手に際して手段を選ばない人々の存在であった。なんだかちょっと面白くなった。これではそういう人々をとても笑えたものではないなと思った。さながらスパムメールのごとくメールを大量に送り,電話をかけ,迷惑そうに切ろうとする相手を強引に引き止め,欲しいものを入手するために手段を選んでいないのは私も同じだからだ。でもごめん,これはどうしても諦められない。幸いこちらにはジャニーズ事務所が敷いたような厳しいルールもない。史料調査の許可が下りるまで,アイルランド女子修道院中に要注意人物として情報が回るくらい連絡し続けてやる。もちろん,明日もそうするつもりです。