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サバルタンが語るとき:映画『かぐや姫の物語』,『紙の月』

今日も私は院生室に5時間ほど詰めて論文を書いて帰ってきたわけなのだけど,これからさらに小論じみたものを書こうとしている。もはや論文サイボーグと化しているのではないか,と自分でも訝っている。もっとも私は研究者になりたいので,論文サイボーグなら願ったり叶ったりなのだが。

最近『かぐや姫の物語』と『紙の月』を見た。*1どちらもとても評価の高い映画だが,私はどちらにも違和感を禁じ得なかった。

かぐや姫の物語』の原作である『竹取物語』,そして『紙の月』の原作小説において,ヒロインは一種のサバルタンであると言えると思う。つまり,これといって自分の意思を持たず/持てず,男性(あるいは男性社会)に消費される存在である。しかしどちらも,映画ではかなり大胆に翻案がなされていたように思う。つまり『かぐや姫』ではかぐや姫がお転婆に野山を駆け,やりたくないことを拒否し,最後は自ら望んで月に帰っていく。『紙の月』でも,梅澤梨花は横領が明るみに出て追い込まれた時,会議室の窓ガラスを割って外へ逃げ出すという行動を取る。えっ,そんなの原作にありませんでしたよね。念のために言うと,ここが原作と違うとかあそこが原作と違うとか,そういうナンセンスな批判をするつもりはさらさらない。しかし角田光代の原作における梅澤梨花には,私はどちらかというと諦念と自棄のようなものを感じていたのである。『竹取物語』もどちらかと言えばそうではなかったか。自らの意思とは関係なく地上に下ろされ,自らの意思とは関係なく男に求婚され,自らの意思とは関係なく月から迎えが来て無理矢理帰らされる,理不尽のきわみのような話だったと思うのだが。一番驚いたのは『かぐや姫』の中で,「私が迎えを呼んでしまったのです」というような台詞があったことである。かぐや姫の昇天はおそらく死を象徴した出来事だと思うのだが,それすらもかぐや姫は自分の意思によって決意しているということになる。

で,こういうことを考えるとき,何より象徴的に思えたのはヒロインたちの台詞の多さである。映画だから当たり前ではあるのだが,『紙の月』はともかく,『かぐや姫の物語』でかぐや姫があんなに話すとは思わなかった。それこそスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』のタイトルに現れている通り,自らの意思を持たない/持てないということが「声を持たない」ことによって象徴されるのである。『竹取物語』においてかぐや姫の発言なんて数えるほどしかない(少なくとも映画のかぐや姫ほど話してはいない)し,『紙の月』の原作でも,梅澤梨花は話していることよりも,言いたいことを飲み込むことや黙り込むことのほうが多かったように記憶している。しかし,これらの映画においてヒロインたちは実に多弁である。かぐや姫にいたっては堰を切ったように喋るし,『紙の月』では会議室で隅さん(小林聡美)と対峙するシーンがクライマックスとして加えられ,そこで梅澤梨花が思いのたけを語るという風になっていた。特に『紙の月』のこのシーンでは隅さんが梅澤梨花と好対照をなす。しかしながら私は,どちらにも残念さを感じた。ひとつはこんな描き方をすることによって,日本映画の長所であるとも言える「行間」や「余白」が消えてしまっているように思えること。ヒロインの気持ちを推し量る前にヒロインは滔々と喋って気持ちを説明してくれるので,どうも感情移入がうまくいかない。つまりはわかりやすすぎるのだ。ある程度は「解釈の余地を残す」ということも大切なのではないか。そして何より,私が一番強く感じたのは,―これは私の博論のひとつのテーマでもあるのだが―すべての女性が主体的でなければならないのか?ということである。

簡単な答えを先に言うと,もちろんそうでなければならないと思う。男性だろうが女性だろうが,従属的であっていいはずはない。しかしながら,かぐや姫や梅澤梨花のように,好むと好まざるとに関わらず従属的でしかいられなかった女性,というのが,それも多数,いるはずなのである。それは現在の高度に発達したフェミニズム的な考えによって断罪されるべきものではない,と私は思っている。すべての女性がスカーレット・オハラであるわけではないし,別にそれを望まない女性も多いはずである。仕事を持ってバリバリ働いている女性に「女性の本分は妻であり母なのだから仕事を辞めて家庭に入れ」と言うのが暴力であるのと同じく,たとえば喜んで専業主婦をしている方に,これからの時代女性がそんなんでどうする,外へ出て働け,と言ってもお互い噛み合わないだけだろう。というのが私の考えなので,何も原作を改変してまで女性に主体性を持たせなくても,と言うのがこれらの映画を見た時に思った違和感の正体であった。

そしてこれは一応,私が女性史をやる上でのスタンスでもある。特にアイルランド近現代史において女性史と言うと,革命家などの「目立つ女性」の伝記的な研究か,もしくは未婚の母とか娼婦と言った「アウトロー」の研究ばかりが目立つ。でも世の中,革命家と娼婦ばかりが女性ではないだろう。保守的な当時の社会通念に特に疑問を持たずに生きた,あるいは疑問を持っても行動に移すことにはためらいを覚えて行動できなかった,ごく普通の女性たちにこそ私は興味がある。そういう存在はもちろん声を上げていないけれど,声になっていない声を(もちろん,事実を歪めることなく)拾い上げなければ世界は正しく描けないし,拾い上げることこそが私たちの仕事なんじゃないかと思っている。最近博論の輪郭がかなりはっきりしてきたのだが,読書という行動は思ったよりも強く彼女らの声を届けてくれるものであるようだ。彼女らの物語を書いているのは私なのだけど,私が一番,続きを読みたくて仕方がない。そんな研究テーマに巡り合えたのは,本当に幸運なことだったと思う。

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おまけ。『かぐや姫』は同居人の英文学者と見に行ったのだが,見た直後の消化不良をなんとかすべく,見終わったあとカフェで小一時間議論したのである。そのときの議事録。

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

 

 そもそもかぐや姫と梅澤梨花を「サバルタン」ととらえる私の解釈は正しいのだろうか。とりあえず,私はそのように解釈したのだが。

 もうひとつおまけ。それこそ「女性の多様性」がものすごく上手に描かれていて,それまで女子よ恋せよ仕事せよ,的なイケイケ女子応援ムービーしか見てこなかった私はこれでかなり衝撃を受けたものです。『モナリザ・スマイル』。

*1:ようやくといった感じだが,こちらでは日本映画の公開が遅いので仕方ない。