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この本に出てくるすべての女性たちに

今,博士論文の一番の核になるような章(つまり最終章)を書いているのだが,これが楽しい。えらく楽しい。煮詰まった時や書くことが思い当たらない時は確かに苦しいのだが,総じて楽しい。私は卒論の時も修論の時も,いわゆる「生みの苦しみ」を味わっていない。修論の時など本当に楽しかった。しかし,一般的にはそうでないらしい。だから,博論はきっとものすごく苦しいのだろうと覚悟していた。そんな話ばかり聞いていた。しかし,やっぱり楽しい。史料の膨大さの前にどうしていいかわからなくなることを,我々歴史研究者は「史料の海に溺れる」と呼ぶ。私は近現代史が専門なので史料の膨大さは並大抵のものではなく,今まさに溺れている真っ最中なのだが,溺れるなら溺れるでも,耽溺しているとでも言ったほうが近いかもしれない。具体的にはある女性の日記を読んで,その女性の読書のやり方を分析して再構築していっているのだが,この人はどういう好みなのかなとか,どういう風に本を読むのかなとか,日記の記述から考えていくのがまた楽しい。そのために日記に書かれている書名をすべてリストアップし,作者と出版年を調べ,また場合によってはその本が当時どのような評価をされていたかなども併せて調べなければならないが,そんな面倒臭い作業を抱えてなお楽しい。もうちょっと,もうちょっとだけ,と思いながら底なし沼にずぶずぶ沈んでいくこの感じは,快感以外のなにものでもない。

思うに,すべてに苦労と苦難を義務付けようとするのは,日本のよくないところなのではないか。「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」というベートーヴェンの言葉があるが,まるで歓喜の前には必ず苦悩がなければならないとでも言わんばかりの反応にたびたび遭遇する。何かをするにあたって,別に辛くも苦しくもないと言うと,それは真剣に取り組んでいないからだとか言われたりする。私は大学の中でしか生きていないので,社会のことはよくわかっていないが,少なくとも大学院生が,やたらと辛いとか苦しいとか言いたがる。留学体験記には辛かった思い出ばかりが並ぶ。おかしくないか。だって大学院なんて義務教育でもないわけだし,自分で望んで進学しているのだし,研究テーマだって(基本的には)自分で考えて選んでいるわけだし。それで辛く苦しいのならすぐにでもやめればいいのに,といつも思っていた(し,思っている)。各所で話している通り,私は大学受験のラストスパート時期には1日に1時間しか寝ていなかったけれど,それを辛いとか苦しいとか思ったことは一度もなかった。本当に。目の前にやるべきことがあって,それをやりさえすれば目標が達成できる状態で,しかもそれは自分が本当にやりたいと望んだことで,これほど取り組みやすい仕事もないと思う。今はさすがに,悲しいことに年齢的に,1日に1時間しか寝ずに取り組むことはできそうにない,というかやめておいたほうがいいだろうが,でも下手をすればそうしかねない。日曜日だけはきちんと休むことにしているのだが,先週くらいからずるずる「日曜日は博論を書かない」→「じゃあ投稿論文書こうかな」とかいう危険な思考回路になり始めているし。今日もついつい,念のため,念のため,と自分に言い訳をしながら史料の日記を1巻持って帰ってきてしまったし。

でもなんにせよ,博論を書き上げる時期に楽しく過ごせているというのは,本当に幸せなことなのだろうということはわかっている。このペースで行けば/行くことができれば,夏の間に草稿が書きあがり,そうすれば推敲に時間をかけることができる。私は博論の中で,たくさんの女性の読書経験を取り上げている。名前が現れないような女性から,有名な女性まで。彼女らの誰も,もう生きてはいない。しかしたとえば会うことができたとして,あなたの読書のことをこんな風に書きましたと言って博論を見せたら喜んでくれるようなものにしたいと思っている。前読んでいた研究文献の献辞で,「この本に出てくるすべての女性たちに」というものがあって,それがとても心に残っている。私もそんな風に胸を張れる博論にしたい。