読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「読書と人々」シリーズ第3回:史料としてのメモワール

第5章の初稿をなんとかかんとか仕上げて,添削してくれる友人のアレックスに送った。アレックスはすでに第3章も見てくれているし,とても親切に添削してくれるし,仕事は早いし,でどうしても何かお礼をしたいのだが,心優しい私の友人たちは"My pleasure"と言って取り合わない(泣きそうになってきた)。そうだ,アレックスはカナダ人だし,前『バンクーバーの朝日』の話をしたら興味を持っていたし,とDVDを探してみたが,字幕は日本語のみだった。もう!

バンクーバーの朝日 Blu-ray 通常版

バンクーバーの朝日 Blu-ray 通常版

 

 さて,『バンクーバーの朝日』の英語字幕版が発売されてアレックスに渡せるようになるのを切実に願ったところで,今日の本題に入る。少し前に2本記事を書いて放っておいた「読書と人々」シリーズ*1だが,今日はちょっと,史料としての本について書いてみようと思うのである。

冒頭で述べた第5章で,私は主に2種類の史料を扱った。メモワール(回顧録)と,日記。ウェイトは圧倒的に日記の分析が占めているのだが(なにせ23年分もあるので),メモワールはメモワールで,とても面白く,また重要な史料である。特に自伝の場合,性質的には日記と同じく「エゴ・ドキュメント」であることに違いはない。しかしメモワールを日記と比べた時の最も顕著な違いは,そこに読者の目への意識が加わるということである。たとえば平安時代日記文学でもない限り,日記はごく個人的な日々の記録だが,メモワールは同じ記録でも,選択され,淘汰された記録である。すべての記述に,今でいう「セルフブランディング戦略」が,意識的にしろ無意識的にしろ,垣間見える。たとえば私は読書傾向を主な研究対象にしているので,メモワールの中で筆者たちが「若いころ読んだ本」としてどのようなものを取り上げているかを仔細に調べたのだが,いくつかの例を比べてみると,その違いは顕著であったし,おそらく他にも山ほど読んだであろう本の中からそれらの本を選択して取り上げることによって,筆者たちが自分(自伝の場合)あるいは主人公をどのように描きたいのか,どのように印象付けたいのか,また彼らが生きた時代をどのように象徴したいのか,が明らかになる。というのがまあ,私の書いたことの大雑把な前提である。

そして今,世間を騒がせているメモワールと言えば,それはもちろん元「少年A」の書いた『絶歌』であろう。私はこちらにいるので騒動を実際に体験していないものの,読書史をやっている人間として,またメモワールを実際に史料として使っている歴史家のはしくれとして,とても興味深くニュースを追っている。あまり指摘されないが,上述したようにメモワールは,歴史学の観点からしても大変貴重な史料なのである。たとえば私が(たぶん50年後とかそれくらいに)20世紀末日本の社会史を研究している研究者だったとしたら,この『絶歌』はなんとしても手に入れたい第一級の史料だっただろう。史上稀に見る凶悪な犯行を,しかも当時14歳の少年が犯し,そして本人がその生い立ちや事件の概要,社会復帰するまでを綴るなど,なかなか見られるものではない。

そしてこの本は「遺族の了承を得られないまま出版された」ということが一番の問題になっている。確かに出版の経緯は批判されてしかるべきものだと思うし,「記録として残すだけなら出版する必要はない」という批判ももっともだと思う。なんらかのデータベースに入れておいて,しかるべき手順を踏んで閲覧できるような形に(つまり,「印税」という形で元少年Aのもとに収入が入らないような形に)することは十分可能だっただろう。しかし,私たちのような人間にとっては,メモワールそのものが貴重な史料であると同時に,どのようにしてそれが世間に「受容」されたかということも大変重要なのである。どのように宣伝されたか,どのようにマスコミがそれを報道したか,どのような反応があったか,何部売れたか,何版出たか,などなど。おそらく先述したように,たとえば20世紀末の日本史をやっていてこの事件を調べるとしたら,Amazonのレビュー,個人の感想が書かれたブログなどもくまなく調べることになるだろう。もっと後世の人が私と同じような研究をするとしたら,たとえばどこかの図書館や文書館にこの『絶歌』が寄贈されたとして,元の持ち主が余白に書いた書き込みなども見ることになるだろう。それくらい,メモワールというのは,それもベストセラーになるまでのメモワールというのは,何重にも何層にも使い勝手の良い史料なのだ。

そういうわけで,この出版をめぐる一連の騒動については多く書店員さんが発言なさっているようで,それはほとんど「本を売る」という行為の持つ思想性についてであることが多いのだけど,一応「歴史家」の意見として,ちょっと思っていることを述べさせていただいた次第である。良心の問題で,私も個人的に,この本にお金は払いたくない。しかし読んでみたいことは確かだし,まして歴史家としては,特に読書や本の歴史を専門としている歴史家としては,この本に関するすべてを目撃したいと言って過言ではない。結論として,とても複雑である。

*1:ちなみに第1回目:

mephistopheles.hatenablog.com

第2回目:

mephistopheles.hatenablog.com