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Never Let Me Go

ここ数日,寝る前にベッドサイドランプだけで『わたしを離さないで』を読んでいたのだが,ようやく昨日読み終わった。

Never Let Me Go (English Edition)

Never Let Me Go (English Edition)

 

うわあああああああああああなんてことしてくれたんだカズオ・イシグロ

というのが率直な感想であって,それ以上でも以下でもないのであるが,そもそも私はこれが原作になって作られた映画を見たし(今もトラウマである),この話がどういう話かは結末までちゃんと知っている。だからこの本を読むことによって,しかも寝る前なんかに読むことによってどのような結果がもたらされるか,きちんとわかった上でやっている。なのにセカンド・インパクトでこれである。なんてことしてくれるんだ。

そしてこれ,昔からフラストレーションなのは,とある理由(お読みになった/映画をご覧になった方はおわかりと思う)によってあらすじを事細かに書くことができないからである。感想が書けない。こんな不完全燃焼があろうか。しかしもうこの際だから,核心に触れない程度に考えたこと/昔から考えていることを書いてみようと思うのである。

まず,この物語はディストピア小説と断言して差し支えないと思う。私にとってはトラウマ体験に他ならない映画を見終わって腰を上げた時,勘違いしてデートムービーにしてしまったと見えるカップルの,彼女の方がいきなり「えっこれ実話!?」と頓狂な声を上げたのだが,実話でたまるか!いや,もう,核心に触れないようにとは言いつつ,ちょっとだけ核心に肉薄してしまうと,本当に,iPS細胞の実用化を切に願う次第です。こんな物語のようなことが起きなくていいのなら。

しかしそのうえで二重に恐ろしい仕掛けは,ディストピアそのものが主題ではないということである。*1ディストピアもののSFで言えば,「ディストピアと化した近未来/パラレルワールド」に「主人公が疑問を抱いて」「世界と戦う」という三つ巴の舞台設定が必要なはずなのだが,この物語にはそれがない。ディストピアディストピアのまま,主人公たちは静かに納得している。ディストピアを所与のものとして受け入れる,こんな残酷な話があるか。

それよりも何よりもこの物語の最重要な主題はノスタルジアであって,それが先ほどから述べているディストピアな舞台設定と相まって,読んでいて胸がえぐられるように苦しい。おまけにこの物語の設定では,ノスタルジアが完璧に場所とリンクする仕掛けになっている。子供時代はヘイルシャム,青年期はコテージ,そして晩年はセンターというように,3つの場所がそれぞれ主人公たちの人生の過程を象徴するものになっていて,それは主人公たちが負わされている役割ともかかわるのだが,節目節目で懐かしく思い出されることになる。それこそ彼らの役割を考えれば思い出したくないような場所であってもおかしくはないのに,彼らは折に触れて思い出を語り合う。そしてその思い出も,いい思い出ばかりではない。お互いにしてしまった取り返しのつかないことや,決して消えない過ちなども,彼らはそれこそヘイルシャム時代の「コレクション」のようにして,大事に抱きかかえている。それはつまり,彼らにとってはそれが世界のすべてであったことの証拠でもあるのだが。そしてキャシーの最後の独白,もう勘弁してくれと思いながら読んだ。映画と全く同じで,むしろ「映画はずいぶん忠実に作ってあるなあ」と感心すらしたほどなのに,辛くてたまらなかった。

カズオ・イシグロを読むといつもなのだが,泣きはしない。ただ,泣ければどんなに楽だろうといつも思う。それは感動でもあるのだけど,英語でいうようにI'm so touhed. みたいな生やさしいものでは決してない。触れる程度では済まない。彼の作品が残していくのは,もはや爪痕である。

さて,今日はこれから,マルグリット・デュラス『ラマン』を読んで寝ます。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

せっかくですので,この日記をお読みになったからには,みなさまにもぜひトラウマを共有していただきたい所存なのでございます。

*1:と,私は思うのだけど,日本でこの小説が紹介されるときはやたらと「問題提起」の側面ばかりクローズアップされがちなのに首を傾げる。一番ひどかったのは茂木健一郎による帯の推薦文で,「驚愕の真実に戦慄」みたいなことが書いてあった。「驚愕」も「戦慄」も,この物語の形容からもっとも遠い言葉であるように思いますが,間違っているでしょうか。さすが,「文学において文体はさほど重要ではない」とか狂ったことを言い出す方は違う。