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基礎を押さえた怪談

私は普段,怪談を好む方ではない。実家では怪談系のテレビ番組なども見られていたが,東京で一人暮らしをしていた時はほとんど見なかった。ましてお化け屋敷など入りたいとも思わないし,むしろ回避できるなら金すら払いかねない。しかしそれこそ「怖いもの見たさ」で,怖いものに興味はある。たとえば『世にも奇妙な物語』とかは実家に録画を頼み,帰省したタイミングで見たりしていた。しかし,やはりどうも私にとって,「幽霊」や「怨念」は日本と親和性が強いらしい。こちらに来てからは,割と平気になった。いかんせんこちらの化け物など,ドラキュラとかゾンビとかである。*1それでもやはり根本的には苦手なようだから,好んで求めたりはしない。前録画した『世にも奇妙な物語』を自室で見るのがどうしても怖かったのでダイニングで見ていたら,降りてきたハウスメイトに見られて笑われたことがある。

私はそういう人間なのだが,なぜかものすごく怪談を欲するタイミングというのがある。今回はそれが今日だった。執筆の気晴らしにインターネットを開いていて,そこでたまたま「本当にあった」系の怖い話を見てしまったのを契機に,次から次へと読みふけってしまった。最近は執筆を終えてそのまま院生室で夕飯を食べて帰っているのだが,夕飯を食べながらもまだ読んで,帰ってからもさらに読んだ。念のため言っておくと,執筆のノルマはちゃんとこなしました。

読んでいたのはいわゆる「洒落怖(洒落にならない怖い話)」シリーズのもので,それも名作の誉れ高いものばかりだった。あまりにも作為的なものもあり,それは少し興ざめしたが,概してどれもとても素晴らしく,怖がりな私が怖いのを通り越して感嘆するほどであった。一応,これらはすべて「作り話」の体で話を進めさせていただく。実話だったら本当に洒落にならない。怖いの嫌い。もし実話だったら,そんなこと教えてくださらなくて結構です。作り話だと信じさせておいてくれ。

さて,どういうところに一番感嘆したかというと,たいていどれも,きちんと「基礎を押さえて」いるのである。いろいろ読んでみた結果,だいたい2つくらいの類型に大別されるのではないかと考えた。1つは民間伝承が原型になっていたり,またそれをもとにアレンジしたり創作したりしたと思われるもので,有名どころで言えば『コトリバコ』や『リゾートバイト』などがそれにあたるだろうか。特に『リゾートバイト』の後半のほとんどのシーンなど,『雨月物語』の「吉備津の窯」である。『パンドラ/禁后』はもはや文化人類学民俗学の基礎中の基礎である,名前が呪力を持つという概念に基づいている。2つめは「実況形式」のようになっているもので,たとえば『きさらぎ駅』がこれにあたると思うが,これはたとえばラフカディオ・ハーン『骨董』の「茶碗の中」のような,絶筆によって読者がその後の状況を想像せざるを得ない方向に持っていくものである。あとは『地下の丸穴』もこれにあたるだろうか。

創作落語を作ろうとすれば古典落語の素養が必須であるように,またジャズをやるためにはクラシックの素養が必須であるように,怪談を作るにも古典の素養が必要であるらしい。『古事記』に始まり『古今著聞集』,『雨月物語』,さらにはラフカディオ・ハーンの『怪談』をはじめとする怪談アンソロジーに,柳田國男遠野物語』あたりであろうか。『リング』以来,映像化される作品でほとんどの怨霊は貞子の変奏のようなかたちで現れるから,『リング』ももはや古典と言って差し支えないだろう。何事も基礎が大切であるし,さらに研究者の観点から言えば「先行研究を批判的に整理すること」は研究の第一歩である。というわけで,怪談を読んで得難い教訓を得ることになった。ありがたいことである。しかしこんなの,クレジットもなしに「名無し」とかで投稿するなんて信じられない。たとえば私が「創作怪談コンテスト」を開催したとしたらきちんと丁寧に講評するし,なんなら出版オファーのために尽力する。

ところで,私は依然として冷水で髪を洗い続けている。もうすっかり慣れてしまって苦痛でもなんでもないのだが,冷水が体にかかったら辛いので,髪をすべて前に持ってきて,その状態でバスタブの床にしゃがみこんで洗っている。そのままトリートメントをして(水切りが割と難しい),シャワーが終わってタオルを取るまでその状態のままなのだが,おそらく入浴中の私の姿がもっともホラーであろうし,たぶんクライマックスはすべて髪を前にたらして,しかも水が滴っている状態でシャワーカーテンを開ける時であろう。

*1:ちなみに『ドラキュラ』の作者ブラム・ストーカーも,『カミラ』の作者シェリダン・レ=ファニュもアイルランド人です。それどころか,両氏とも大学の先輩です。