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LGBT Pride Paradeに寄せて

今日はダブリンのLGBT Pride Paradeの日だった。おととし見たので2回は見なくていいかなと思いつつも,同性婚国民投票後ということでまた盛り上がっているかもしれないと思い,ちらっと見に行ってみた。しかし結果として,私は若干シニカルになって帰ってくることになってしまった。シニカルというか,そこはかとない違和感。なにこれ。

まず,ダブリンの祭りはセント・パトリックスデーにしろこれにしろいつもそうなのだが,祭りに乗じて飲んで騒ぎたいだけじゃないか,という観客が山ほどいることである。日本のヤンキーと同じで,要するにその祭りの趣旨などどうでもいいのだ。ただパーティーのドレスコードに合わせるようなつもりでレインボーフラッグを体に巻いたりフェイスペイントをしたりして,誇らしげにビール瓶を持って奇声をあげる。それなら別に,祭りに乗じてやらなくてもいいじゃないかと思う。セント・パトリックスデーのような,宗教的な祝日ならまだいい。敬虔なキリスト教徒からするとそれこそダメだろうが,少なくともそういった日にはなんの政治的主張もない。しかしこれはもともと,セクシャル・マイノリティの権利を訴える日であるはずだ。セクシャル・マイノリティの方々は,飲み騒ぎあまつさえクスリすらやったりするバカのために権利を主張しているわけではあるまい。祭りだから無礼講で結構なのだろうし,頭が固いとの誹りを受けるのは重々承知の上なのだが,どうしても「この手のノリ」「この手の人々」は昔から受け付けないようだ。

また,あまり知られていないが,ダブリンにはGoogle,Yahoo,Facebookなどなど,名だたるIT企業が欧州本部を設置している。法人税が安いのと,英語が公用語であることがその理由であるらしい。移民の歴史があるから,たぶんアメリカとのつながりという理由も大きいだろう。そしてこうした企業は毎年,このパレードに大連隊を派遣する。これにはおそらく2つの理由があって,1. 「クール」な企業イメージを得るため,そして2. LGBTの人々の発信力が非常に強いため である。彼らのグループは,確かにいつもクールである。大連隊の大部分は若い社員であるため,見ている人間は否応なしに「若い企業」とのイメージを持つ。しかし,企業がそのイメージアップのためにLGBT支援を表明するって,それはなんだか,それこそセクシャル・マイノリティの人々を食い物にしているような気がする。

さらに根本的なことを言ってしまうと,このパレードを行うこと自体がどうなんだろうということである。たとえば,セクシャル・マジョリティはわざわざセクシャル・マジョリティだけを集めてパレードしたりしない。それは当然,十全な権利が保証されているからなのだが,でも要するにそういうことである。「平等(equality)」を達成する上で,単純に数的な「マジョリティ」「マイノリティ」の区別は必要なのか。セクシャル・マイノリティを「LGBT(Lesbian,Gay,Bisexual,Transgender)」と一括りにすることは,より一層「マイノリティ」の色を濃くすることにつながりはしないか。本当に平等を達成するためであれば,「LGBTS」(Straightも含めて)とかにした方がその趣旨に合致しているのではないか。*1ドラァグクイーンが練り歩き,前述したようにバカが酒を飲んで騒ぐパレードを行うことが,それこそ保守派の人々に対して「LGBT=異常者」という偏見を植え付けはしないのか。結論として,このパレードは本当にセクシャル・マイノリティの権利を訴えるに適したものなのか。そんなことを考えたらなんだか興ざめしてしまって,静かにその場を離れたのであった。

念のため言っておくと,私は同性愛に偏見を持っているわけではまったくない。むしろ,私自身は同性愛者ではないけれども,逆である。同性愛者の人々には,私たち異性愛者が当たり前に享受できるのと同じような権利を,幸福を,同様に享受してほしいと思うし,そのために私ができる協力なら惜しまない。だからこその違和感である。セクシャル・マイノリティって,いつまでもこんな見世物みたいな扱いなのか。昔はそれが戦略的生存戦略のひとつだったのかもしれないが,今は,特に今年からのアイルランドは,違うんじゃないのか。違うべきなんじゃないのか。それともセクシャル・マイノリティは,いつまでもこうして,一方的にではないにせよ,セクシャル・マジョリティの娯楽的消費の対象であり続けるのか。これに関しては,私も娯楽的に消費しようと思って現場に赴いたセクシャル・マジョリティの一人だから,あまり偉そうなことは言えない。しかしセクシャル・マイノリティの主張に賛同するにせよ,それが少数者に対する憐憫,もしくは無意識の優越感に起因する「施し」のようなものであってはいけないはずだと,いつも思っている。

*1:セクシュアリティはほかにもA-sexual(無性愛者)とかいるのだが,おそらく言い出したらきりがない。