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デジタル世代の取捨選択

今日はダブリン市立図書館で史料調査していたのだが,写真が撮れないので有料でコピーしなければならず,しかもそれも著作権の関係で総ページ数の10%まで,という研究者泣かせの規定があった。ここを使うのは初めてだったのだが,市立図書館であるということで油断しきっていた節がある。意気揚々とカメラを持参していた私はしょんぼり机に向かって写し始めたのだが,対象の史料(ダブリン市の図書館委員会の議事録と報告書)が膨大だったので断念せざるを得ず,まるまるコピーを頼んできた。総額にして5000円ほど*1かかる計算になってしまったので,カウンターの司書さんには何度も「高くなりますよ」と念を押された。「選んだらどうですか」とも言われたのだが,史料というものは体系的に揃っていないと意味がないのである。骨までしゃぶってやるくらいのつもりで使い倒してやる。コピーは明日できるので,明日取りに行くことになっている。

研究者にとってパソコンの登場は,それを直接的に研究に使う場合においても,執筆のためにWordを使うくらいのレベルでも,飛躍的に研究効率を上げたエポックメイキングな出来事であった。そして,特に歴史家の場合,史料調査にデジカメを使える私たちの世代でまた効率が上がった,とひとつ上の世代の先生たちからよく言われる。それは確かにそうだと思う。特に何が便利って,まだ駆け出しの頃,史料調査の精度が上がりきらない頃に,「とりあえず写真撮っておく」ということができるのだ。500枚撮った写真のうち,本当に使えるのが5枚だけだったとしても,史料調査は成功ということになる。要はその,本当に使える5枚が見つかればそれでいいのだ。たいていの文書館や図書館がコピーに法外な値段を要求するから,デジカメが使えるのと使えないのとではかなり大きな差があるだろう。細かく言えば,さらにその撮った写真をどのように見るかという問題があって,パソコンの画面で見ていたら「見ながら執筆する」ということができないし(いちいちウィンドウを切り替えなければならない),かといって印刷したらしたで,回転させて,トリミングしてコントラストを上げて,などかなり手間がかかる。私の場合は,すべての写真をiPadに放り込んで見ているからほとんど手間はない。まさにデジタルの申し子である。

しかし便利になればなるほど,「こんなに便利なはずなのにこんなカスみたいなものしか書けない」という悩みも生まれてくるのであって,想起するのは2世代ほど前の碩学たちである。あの先生もこの先生も,史料は修道士よろしく手で写して,しかもパソコンもなかったのだ。執筆はもちろん,データのグラフ化も,すべて手作業でやっていたのだ。もちろん調べものも,インターネットがないから書物に頼って。それで数々の素晴らしい成果を出してきたのだから信じられない。翻って私,なんと甘えていることかと思う。思うに前の世代の先生方は,情報の取捨選択を上手になさっていたのだ。しかし我々のようなデジタルにおんぶにだっこ世代は,その取捨選択が容易にできない。それはかえって恐ろしいことなのではないかとも思う。

そうは言いながらも,それこそNever Let Me Goで言われていたことと同じで,「暗黒時代に戻りたいかと言われたら,答えはNo」なのである。進化しているようで退化している。明日史料のコピーを受け取るとき,頭を使った作業や労力と引き換えに私が手に入れたものの重みとしっかり向き合おうと思う。まあ,そんなことは言いつつ,そんな感傷に浸っている時間はないんですけどね。

*1:ただこれ見開き計算なのだが,厳密に1ページ計算だったらどうしよう。