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ドラマ版『デスノート』

本論の下書きが終わった解放感からここ数日は大変楽しく過ごしている。今日は前評判にたがわず賛否両論だったドラマ版『デスノート』を見てみた。

これ,とても面白いですよ。

夜神月を天才ではなく凡人にするというのは確かに大胆な翻案だったと思うが,これはこれで面白い。原作および映画版の夜神月が『罪と罰』のラスコーリニコフ型だとしたら,このドラマ版の月は小市民の典型ともいえるような大学生である。自分に自信がなく,将来に求めるものは安定と平凡であり,特に何か目標があるわけでもない。*1そしてこうした,普通の人間がある日手に余るほどの権力を得ることによって狂気が生まれる,というのは,決して荒唐無稽な話ではない。むしろこちらの方が現実味があると言ってもいいくらいである。

今回の翻案で特に感嘆したのは,このドラマ版月の思考回路が非常に現代っぽいことである。窪田月は「自分が正しい」から殺人を犯すのではなく,あくまで「人がそれを望んでいるから」という理由で殺人を重ねる。さらにその行動が称賛されるにいたって,あたかもそれが正当化されたかのように錯覚する。要するに,窪田月にとって,自己の正しさは他人の評価によってはじめて確立するのだ。リースマンが『孤独な群衆』で述べたところの「他人指向型」と言ってもいいかもしれない。そして,彼のこうしたアイデンティティの不安定さは,「自分」と「キラ」とを別人として扱うことに象徴されている。つまり殺人は自分ではなくキラが行っていることであり,キラの邪魔をするものを取り除かねばならないから,矛先をLや捜査本部へと向ける。このあたりなど,他人と同調しハンドルネームをいわば「別人格」のようにして交流するネット社会の縮図そのものである。「義憤」に駆られて疑わしい者の個人情報を特定し,それを晒しものにすることによって私刑を加えうる現代社会は,よくよく考えれば『デスノート』の世界観そのものである。さらにこの社会において,「正しい(と思われる)こと」は一人によっては行われ得ず,多数の承諾を得て実行に移される。天才同士の頭脳戦は確かにスリリングであるが,天才対凡人の場合だって,凡人に勝ち目がないとも限らない。そもそも窪田月はいわば一般市民の代表ともいえる存在であるため,これは「天才対凡人」というわけではなくて,もはや「天才対社会」と置き換えられるかもしれない。正しい1人か,正しくない多数か,この場合どちらを「正しい」とすべきなのか。これは最近ではマイケル・サンデルの白熱教室によって有名になった命題ではないか。

そういうわけで,今のところ私はこのドラマにとても期待している。映画版が非常に高評価だった作品なので,ただでさえ冗長になりがちなドラマでその評価を超えるのは難しい可能性もあるが,*2ぜひともがんばっていただきたい。

最後に,フェアを期すためにきちんと述べておこうと思うが,現時点で非常に残念だった点はとりあえず2つ。まず,窪田月が辞書を使わなければデスノートの使用方法が読解できない程度の英語力であるということ(公務員試験は大丈夫か?)。それから山崎Lが馬蹄型の指輪を付けているということ。そんなチャラチャラしたもの付けんでいい。

*1:そしてこういう,平凡きわまりない大学生といえば窪田正孝窪田正孝といえば平凡きわまりない大学生である。本当に適役。

*2:しかも今回は映画でばっさりカットされたLの死後も含めるおつもりのようだし。