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ヘミングウェイとサガン

*最初に書いておきます。今日のこの記事は,ヘミングウェイサガンの作品を比較検討するものではありません。

ふと,今本当にふと思ったのだが,私たちは女性作家に「女性ならではの感性による細やかな感情描写」や「機微」を無意識に求めているように思う。女性作家の小説の書評において,こうした褒め言葉はもはやクリシェになりつつある。男性作家でも細やかで繊細な描写をする人は大勢いるのに,女性の場合はそれが天賦の才であるかのようにとらえられている感がある。こういうジェンダーバイアスというかイメージは,小説において結構強い気がする。男性作家がすべてヘミングウェイで,女性作家がすべてサガンででもあるかのような。そして,たとえばそれが(これまで男性作家の独壇場であるとされてきた)官能小説であったとしても,いや官能小説の場合はなおさら,「女性ならではの感性で描いた」心情描写だの濡れ場の表現だのが評価されていたりする。不思議なことである。女性作家たちは,そのステレオタイプというか期待を厄介に感じたりすることはあるのだろうか。

というのが,私はしばらく前まで,女性である自分が女性史を研究するということについて,なんとも言えない居心地の悪さを感じていたからである。今でこそ私は意味があって女性史をやっていると言える(と思う)が,このテーマに決定するまで,女性史にだけは足を踏み入れたくないとすら思っていた。女性史をやっている女性研究者は周りにいくらもいたが,天邪鬼にではなく,私は女性史だけはやりたくないと思っていた。女性史を女性が研究するのは,実体験に即して問題意識が抱かれやすいという点において,もっともなことでもあるのだが,何かそれが無意識に期待されているようにも思われ(「女性だからいつかは女性史を」というような),その期待に応じたくなかった(ただ,思えばこの反抗的な態度だけは女性史向きだったかもしれない)。私自身,女性であることで損をした経験がほとんど思いつかないし,特に問題意識もなかったからである。だからフェミニズム的な思想とも縁がなかったし,どちらかと言えば嫌いだった。しかしそれが今や,文献紹介の原稿を書くためにNew Womanについて書かれた最新の研究文献を読みながら,自らも反骨精神を高めるためにKasabian「Club Foot」など聴いているのだから,人生わからないもんである(このあとはCourtney LoveP!NKThe Offspringなどの,私が考案したフェミニズム・プレイリストが続く予定である)。

そういうわけで,同じ思いを抱いている/いた女性作家はいないのか,ふと考えたら非常に興味が湧いてきて眠れそうにないのだが(こんな夜更けにカサビアンだのコートニー・ラヴだの聴いていたらそりゃ眠れないのだが),インタビュー記事でも研究論文でもいいので,お心当たりの方はお教えいただけますと幸いです。たとえば山崎豊子の作風なんてまったく女性らしくはないと思うのだが,彼女はどう考えていたのだろう。