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自分だけの部屋

今日私は家で作業するつもりで,必要な文献などを持ち帰っていた。その理由というのはほぼプラクティカルなものであった。ここのところダブリンは肌寒い日が続いている。私も3年もダブリンで生活して,必要な生活の知恵はもう身に着けているのだが,たとえば冬服は完全にしまいこんでしまわずに,寒い日に備えて常に3~4着は常備しておくというのはそのひとつである。その3~4着を代わる代わる着用して生活していたのだが,今年の冷夏は割と深刻であるらしく,もう1ヶ月近くもこの気温(17~18℃前後が最高気温)なのである。手元の冬服を必死で着まわしてはいたものの,これなら部屋着を着る日を増やした方が(すなわち在宅の日を増やした方が)利口ではないかという結論に達したのだった。

しかしここ半年間,こちらにいる間は日曜を除いて毎日学校で作業していた私にとって,もはや「在宅」はリラックスの代名詞となってしまった。そのうえ,今朝,日課である大家の飼い犬の散歩に出たところ,誤って彼の糞を踏んでしまうという悲劇に見舞われ,意気消沈して帰宅後にもう一度ベッドにもぐりこんでしまうという失態をおかした。1時間だけと思っていたのだが2時間ぐっすり眠りこんでしまい,結局そのあと頭が働かないままに起きて作業をしたが,さほど生産性はなかった。しかも今日は不注意にも朝寝などしてしまっているため,今夜きちんと眠れるかも定かでない。こうして堕落した生活は始まるのだなと戦慄している。

私は今まで,自分が在宅できちんと作業できると自負していたし,それを誇りにも思っていた。「家にいたら気が散っちゃうから」などと言って図書館などで作業する人々に関しては,正直に言って,少し軽んじていた節がないともいえない。しかし今日,私にとって在宅の魅惑とはなんなのか,よくわかった気がした。まず,これは精神論的になってしまうが,気が抜けてしまう。ここ半年の「出勤」生活で,学生だからそんなに大したことはしていないとはいえ,朝起きて「よそいきの」服を身に着け,化粧を施し,香水をつけ,音楽を聴きながら30分ほど歩いて登校するという一連の作業がいかに私のオンとオフを切り替えているかがよくわかった。次いで,余計な事柄が入り込んでくる。在宅で作業できない人々がよく「家には誘惑が多くて」と言うが,私はテレビを見たり昼寝をしたりはしなかったものの,やはりアイスを食べるだの,そういう細かい「余計な事柄」が入り込んできて私の作業時間を侵食する。するといちいち集中が途切れる。

これを踏まえて考えたことは2つある。まず,博士課程修了後は,できるだけ早く,研究室をいただけるような職に就こうということである。ヴァージニア・ウルフはその有名すぎる評論『自分だけの部屋』(A Room of One's Own)の中で,女性が小説を書くには資金と自分一人で使える部屋が必要と述べ,これはフェミニズムの古典の1つとなった。ウルフには申し訳ないが,私はまったく違う文脈で,自分ひとりで,それも仕事専用に,使える部屋が欲しいと思っている。仕事「専用」でなければならない。生活もできる部屋だと,それは条件を満たさない。私はずっと,未来の結婚相手は婚約指輪など買ってくれなくていいから(結婚指輪は欲しい),書斎をくれればそれでいいとほざいて公言していた。しかし少し考え直している。書斎ではダメだ。ウルフが言った意味での,プライベートな空間はあるに超したことはないにせよ,それは私の羽を伸ばす空間にはなるかもしれないが,仕事をする空間にはならない気がする。

さらに,女性としてキャリアを考える上では,それもできるだけ持続可能なキャリアを考える上では,在宅でも仕事ができる人間であった方が絶対にいいだろうということである。これから私も人並みに結婚することができ,また出産することができたと仮定した場合,産休中や育休中など,どうしても在宅である程度の仕事をすることになる。そのほかにも,たとえば子供が熱を出したとかで,短期的にでも在宅になることはあるだろう。そんな時に気が散って何もできなかったとかでは,先が思いやられるというものである。まして産休中や育休中など,気が散らない方がおかしいだろう。そうなるとアイスを食べるどころではない様々な事柄が差し挟まれることになる。そしてその時,いちいち集中が切れて仕事に戻るのに時間がかかっていては話にならない。

そういうわけで,今は幸運にしてどちらも与えられているわけだし,日頃はきちんと仕事場で仕事に集中しつつ,たまには今日のように在宅で作業する日も設けて,仕事場と同じくらい成果を出せるような訓練をしておきたいと思ったのだった。基本的にはワーカホリックなのですよ。基本的には。