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政治的なコーヒー

日本滞在の最終日,私は叔母と買い物に出かけたのだが,叔母が「カルディのコーヒーってどう?」と聞いてきた。そろそろ新しいコーヒーを買わなければならず,カルディで買ってみようかと思っていたらしい。

カルディ。この甘美なる響き。思えばカルディは,私が東京に出てきて心ときめいた店のひとつであった。都会では輸入食材が買える。こんなに手軽に。*1カルディを知ってからというもの,駒場キャンパス時代は帰宅途中によく下北沢で途中下車していたし,本郷キャンパスに移ってから住んでいた成増にカルディができた時の喜びは筆舌に尽くしがたいものであった。成増時代は財政的にも幾分か余裕があったので,カルディで無駄なものを買うこともそれは頻繁であった。クリスマスシーズンにはアホみたいにパネトーネとか買っていたし,他にも様々な機会をとらえてはカルディに金を落とした。そして成増で過ごした最後の3年ほど,私はカルディでコーヒーを買うことを覚えた。味の違いがわかるほどの通ではないが,私は無類のコーヒー好きである。少量ではあるがその時その時の気分に合った味や香りのコーヒー豆をその場で挽いてもらい,帰ってそのコーヒーを味わう贅沢はこのうえない幸福を私にもたらしていたものである。そんな素敵な思い出がよみがえり,私は叔母をそそのかして数年ぶりでカルディのコーヒーの前に立った。

ところがカルディのコーヒーは様変わりしていた(ように思える)。少なくとも私がコーヒーを買っていたころ,コーヒーは「味」によって選べていたはずだった。私はそのコーヒー豆につけられた名前から想起するイメージと,説明と,味のチャートによってコーヒーを選んでいたのである。しかし純粋に味によって選べるコーヒーは格段に少なくなっていた。それでは何によって選ぶかというと,コーヒー園の取り組みによって選ぶのである。このコーヒーを作ったコーヒー園はフェアトレードを遵守している,このコーヒーは主に女性の手によって作られたもので女性の自立を支援している,等々。つまり我々はコーヒーを味で選ぶのではなく,コンセプトによって選ぶのである。おいしいから選ぶというよりは,コーヒー園の取り組みを応援したいからそのコーヒーを選ぶ,というように。

しかしこれには閉口した。コーヒーを選ぶということは,こんなに政治的な立場表明が求められるものであったのだろうか。そんなに重い選択だったのか。朝起きてコーヒーを淹れる時,あるいは夕方や夜に帰ってきてコーヒーを淹れる時,そのコーヒーはそんなに多くのものを背負ったものでなければならないのか。ああ,もう,余計疲れる。腐っても私は高等教育を受けた身である。そりゃ,フェアトレードも女性の自立も応援したい。しかし一介のコーヒー愛好家として,もっと純粋な,もっと言えばちゃらちゃらした気持ちでコーヒーを選んではいけないのか。やだービターチョコレートのような香りだってー,とか,ほんのりナッツのフレーバーだってー,とか,そういう軽い気持ちでコーヒーを選ぶことは許されないのか。いつからコーヒーはこんなに道徳的かつ政治的な飲み物になってしまったのか。もしかしてこれは,コーヒーがプランテーションによる植民地支配および搾取の体制と切っても切れない関係にあったということの反省から来ているのか。ちょっと,勘弁してよ。

ちなみにこうしたことに驚愕し,悶々としている私の横で,叔母が選んだのはプラチナムブレンドという名の,特にコンセプトを背負っていないコーヒーであった。うん,コーヒーなんておいしければそれで十分ですよ。帰ってから私もお相伴にあずかったが,プラチナムブレンドは割とさっぱりしており,苦味もしつこくなく,それでありつつも深い味わいであり,とてもおいしかった。カルディにはぜひ,初心に戻っていただきたい。

そういうわけで,おととい日本からこちらに戻ってまいりました。それに伴って,こちらも再開いたします。

*1:今でこそカルディは岡山にもあるが,当時はなかった。