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いきなりエリオットが好き

何かを好きになるとき突然好きになるのはいつものことで,じわじわ好きになるなんてことは滅多にない。対象が現実の男性だったりジャニーズだったり,はたまたエリオットだったりするだけである。あ,エリオットというのはT・S・エリオットね。E. T. をかくまう少年ではなくて。

ただ,エリオット,というと語弊がある。エリオットを好きだなんて言えるほどエリオットを読んだわけでもない。というより,まだ1つの作品を読み終えてもいない。でもこの作品は,もう手に取った瞬間から絶対に好きだと思った。読み進めるにつれて,果たして好きだった。『荒地』である。

荒地 (岩波文庫)

荒地 (岩波文庫)

 

「いきなり」と正直にタイトルに付した通り,この有名すぎる詩を初めて読んだ/読み始めたのは,恥ずかしながらついこの間である。1週間から10日ほど前。ルミネ立川のオリオン書房で,帰りのフライトで読む本を物色していて,それでこの岩波文庫の『荒地』を何気なく手にしたのだった。そのとき主に探していたのは『夜と霧』だったから,岩波文庫コーナーの前には本当にふらっと立ち寄っただけだった。そして表紙をめくった。「四月は最も残酷な月」。ああ,もう,好き。しかし私はこちらに留学してからというもの,原作が英語で書かれたものはできるだけ翻訳を読まないというマイルールを設けているのである。結局,その日は予定通り『夜と霧』を買って,『荒地』は買わずに帰った。今思うと買っておけばよかったのだが。

モダニズムを代表する難解な詩というのがこの『荒地』の定評であるようだが,それを知らずにいきなり出会ったのは幸いだったかもしれない。確かに,ものすごく難しい。しかしそれ以上に,私の個人的な「文学を好きになる要素」がこれでもかと詰め込まれているのである。それは最初の「死者の埋葬」だけとってみてもそうなのだが,まず,最も重要な点として,書き出し。私は衝撃的な書き出し*1をこの上なく好んでいるのだが,もう「四月は最も残酷な月」だなんて,それだけで一生ついていける。さらに,撞着語法と言っていいのか素人の私にはよくわからないが,異化させるような形容の数々。それは四月を「残酷な月」と表象するのもそうだし,少しあとに出てくる「冬は私たちをあたためてくれた(Winter kept us warm)」というのもそうだし,一瞬立ち止まって考えざるを得ないような表現がわんさか出てくる。それから,ころころ変わる主語や人称。これも「死者の埋葬」でいえば,突然出てくるドイツ語"Bin gar keine Russin, stamm' aus Litauen, echt deutsch."(私はロシア人じゃないわ,リトアニア生まれのドイツ人よ)によって,あれ,語り手が詩人ではなくなる,というか最初から詩人が語っていたのか?という謎に包まれる。かと思えばまた英語に戻るけれども,そこはこの「ロシア人じゃないリトアニア生まれのドイツ人」である「マリー」の思い出である。もう,一体,何が何やら。でもこのめまいがするような頭痛のするようなわけのわからなさ,これこそが私の大好物なのです。ガルシア=マルケス百年の孤独』とか,ボルヘス『伝奇集』とか,なぜだか南米マジックリアリズム作品ばかり例示してしまったけれど,ああいう感じの。それに,こんなことを言うと気障ここに極まれりといった感じがしないでもないが,これを読みながら,私は現代バレエやコンテンポラリーダンスを観ているような気分になった。『春の祭典』みたいな。おそらく,わけがわからないなりに食い入るように鑑賞する感覚がシンクロしたのだと思う。

で,私は好きになった人やら物のことは調べられる限り調べつくすタイプなのだが(もちろん現実の男性の場合でもです。お気をつけあそばせ),今回の相手はかなり厄介である。ふつう好きな人の情報は少なすぎて困るものだ。しかし今回は研究文献が山のようにある。日本語も英語ももしかするとその他の言語も。しかしそもそも原典すらまともに読めていない身なので,とりあえずがんばって読みながら,Youtubeで朗読を聞いたり,講義みたいなものを聞いたりしてせめてもの慰めとしている。


T.S. Eliot reads: The Waste Land - YouTube

ピアニストなんかと同じで,現代詩人になると,詩人自らによる朗読の録音が聞けたりするのは贅沢である。上に貼った通り,エリオットによる『荒地』の朗読ももちろんある。しかし,今までこの「詩人自らによる朗読」,あまり好きだと思ったことがないのはどうしたことか。唯一好きだったのはパトリック・キャヴァナくらいで,他はどれもこれも,イェイツにしてもこのエリオットにしても,なんでこんな間延びした朗読になるのか,これなら私にでもできるんじゃないかとすら思えてしまう。このあたりの詩人に共通するこの独特の朗読法は,何か理由があってのことなんでしょうか。

今日もまた,新しい連をひとつ読んで寝ようと思う。ちなみに読むというのは音読しているのだが,この詩,素人には韻の踏み方すらよくわからない。なにもかもわからない。ああ,もう,好き。こうして私は恋い焦がれ底なし沼にはまる。ちなみにこの詩,いくらでもインターネット上で読めますので,どうぞみなさまもご一緒に迷宮入りいたしましょう。たとえばこちらをどうぞ。

*1:「きょう,ママンが死んだ」とか「人は生きるためにこの都会へ集まってくるらしい。しかし,ぼくはむしろ,ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。」とか。ご当地ものでいえば「土は言葉,そして土は肉体」とか。