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息子3人を灘から東大に合格させたお母様はなぜ批判されなければならないのか?

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この方のこと,およびその教育論は以前に東洋経済のコラムだかで見たことがあった。私自身,その時も今も,この方のおっしゃることに賛同はできない。昨日今日で話題になっているらしい上の記事を見ても,やはり大学受験くらい(それがたとえ東大であっても)子供が自分ひとりで達成できなくてどうするんだと思うし,親が徹底的に手伝わなければならないようなことは,東大も要求していないと思う。以上が私の基本的な意見であることを述べておきつつ,私がそれ以上に違和感を覚えたのは,この方の意見に対する批判に対してであった。

まず,そもそも論になってしまうのだが,なぜみなさん,そんなにムキになってこの方を批判したいのかわからない。この方は求められた場に出向いて行ってご自身の見解を述べただけであって,何も「だから日本中の親が私のやり方に忠実に従って子供を導くべきだ」と言っているわけではない。この方の話を聞いて,参考にすべきと思うのであれば参考にすればいいだろうし,そうでなければそうしなければいいだけのことでしょう。

さらにこの方の「受験に恋愛は無駄」という意見について,多くの方が「思春期に恋愛をしない方こそ問題」だの,ひどいものでは「人格がゆがむ」とまで述べていらした。まず,この方は「受験」をする上では恋愛に割く時間がもったいないと言っているだけで,思春期に恋愛をするなとは言っていない。それに,えっ,思春期に恋愛しないと人格がゆがむんですか。ちなみに私も,高校時代は恋愛など無駄だと思っていた人間である。私自身がモテなかったことに加え(これは隠し立てしても仕方ない),当時流行していた腰パンに髪を立てた「量産型」の同級生男子にも興味がなく,本当に東大に行くのだとしたら,もし誰かと付き合うことができたとしても卒業と同時にかなりの確率で別れるだろうということ,などなどを勘案して無意味と判断したのがその理由である。そういうわけで,私は部活にも入らず,まあまあ勉強漬けの高校時代を送っていたが,今振り返っても高校時代はいい思い出であるし,勉強ばかりしていたせいで人格がゆがんだ覚えはない(ゆがんでいるのかもしれないが)。またこの方は「子供たちには目立った反抗期はなかった」と述べていらして,そのことについても「反抗期がある方が健全」というような批判がなされていたが,「思春期は勉強なんて投げ出して,親や先生に反抗し恋をするものだ」などというのは,まるで尾崎豊式のステレオタイプではないか。子供は15歳になるとみな盗んだバイクで走りだすのか。みな夜の校舎で窓ガラス壊して回るのか。犯罪ですよそれ。子供は一様に勉強が嫌いなものだと,大人に反抗するものだと,そして恋をするものだと,それこそが妙に凝り固まった価値観の押しつけであるとは思われないのだろうか。

さらに一番気持ち悪かったのは,「子供を自己実現の道具にするな」というような批判である。いや,極論すれば,子育てって,多かれ少なかれ,意識的であれ無意識的であれ,親の(特に母親の)自己実現でしょうよ。なんかこの批判の裏に,母親は「無償の愛」で子供を育てるべきであり,さらにその成果を喧伝すべきではない,みたいな「滅私奉公」的思想が見え隠れしているように思われる。母親は黒子に徹するべきであり,しゃしゃり出るのはあさましいとでも言わんばかりの。冗談じゃないわと思う。この方は子供の受験をある「プロジェクト」と理解して,その達成のための方法論を考え,それが一定の成果を上げたと発表しているだけではないのか。女性の自己実現願望というのは私の博論のテーマのひとつでもあるのだが,家事だって育児だって自己実現につながるんですよ。そしてそれは,仕事や学業で自己実現をするのと同様,なんらおかしいことではないのではないか。少なくとも(子供がその教育によって精神を病むとかでない限り)批判されるようなことではないし,誰にもその権利はない。

しかし,いつも思うのだが,なぜこういう話が出ると,無意識のうちにみなさん「独善的な親に唯々諾々と従う可哀想な子供」の図式を連想するのか。おまけにその子供は「不満を抱えているはずだ」みたいな補足まで勝手に行ったりする。えっ,もしかしてまだ「教育ママゴン」のイメージがあるんですか。あれ何十年前ですか。古っ。冒頭で述べた通り私はこの「佐藤ママ」さんの方式が必ずしも正しいと思わないが,しかし親子の間に信頼関係はあったのだろうとは思う。そして,信頼している母親のアドバイスを間違っていると思わないから,聞き入れてその通りにしたということではないのか。子供にも意思があるというなら,親の言うことをきくかどうか判断することも,立派に意思のひとつなのではないか*1なぜ多くの人が,「常識やステレオタイプを疑う」ということができないのか。自分が信じていることに実は違う面があるかもしれないとか,正しいと思っていることでも正しくないかもしれないとか,まず疑ってみるのはそんなに難しいことでもないと思うのだが。これは,この「佐藤ママ」の例に限らず,昨今の言論空間を目の当たりにするたびに,私が心底残念に思っていることでもある。自分にとって理解できないものを目の当たりにした時に,こぞって攻撃して排斥しようとするこの風潮が,私にはとても気持ち悪く思える。ちなみに,この「常識を疑う」「前提を疑う」というのは,理数系はどうかわからないが,人文系諸学問の方法論の基礎でございます。だから「人文系改廃」の議論は恐ろしいんですよ。これはまた稿を改めますが。

ところで,この件はよほど耳目を集めたと見えて,著名人も多くコメントをしていたようだった。

駒崎弘樹さん,フローレンスでの活動など立派な方だなあと思っていたのだが,正直言ってこのコメントにはがっかりした。というか,怒りすら覚えた。まず,ご自身の発言が特に教育に関して影響力を持つことを知りながら,「典型的に酷い」とまで1人の母親の教育方法を全否定するとは何事なのか(それとも駒崎さんって,よそさまの教育をジャッジなさる資格をお持ちの方なんですか?)。それに「大学合格ゴール」って,どこにも書かれていないだろう。大学に合格したらあとは好きにやれという考えなのかもしれない,とは考えられないのだろうか。*2さらに「内発性をスポイル」というのも,上に書いた通り,親に従うこともまた子供の内発的意思によるものだとは考えられないのか。そういうわけで,いろいろな点で,想像力に乏しいコメントだと思う。

対して,この乙武さんのご意見はそれなりに中立的でとてもよいと思った。東大に入ることが幸せかどうかという論争,本当にどうでもいい。幸せだと思うなら東大に入ればいいし,そうでないならほかの大学に行けばいい。私は幸せだと思ったからこそ東大に入ったし,実際に幸せだったのでそれでよかった。「東大がすべてじゃない」と騒ぐことこそが逆に東大の存在感の大きさをアピールするように見えるのが,この国の歪んだところであり,皮肉である。

長くなってきたのでこのあたりで筆を擱こうと思うのだが,最後にこうした問題を考えるにあたって,僭越ながらおすすめの本を2冊,こちらに紹介しておきます。

蜻蛉日記 (岩波文庫)

蜻蛉日記 (岩波文庫)

 

 まずはこちら。「子供を自己実現の道具にするな」という見解の方は,ぜひこちらをお読みください。この人なんて,自己実現の道具にしたどころか,1000年以上も読み継がれるような本まで書いてしまっています。したたかに生きていきませんとね。

 

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 

 さらに「親の言いつけに唯々諾々と従う,『内発性をスポイルされた』可哀想な子供」イメージに縛られている方は,ぜひこちらを。そもそも「子供」と「大人」の区別はどこでつくのか,そこから相対化してみてください。常識を疑うって,こういうことです。

*1:これはちなみに私自身経験したことで,私の母が私に公文式だのピアノだの習わせるのは田舎において好奇の目で見られ,私の母も「教育ママ」と陰口をたたかれていたし,私自身もまた「かわいそうね」とか憐れまれたりしていた。でも別に,私は母に強制されて勉強やピアノをやっていたわけでもない。私がやりたいからやっていたのである(公文もピアノも,私が希望して始めた)。それに聞き分けがよいことについても,母の方針が「一番よさそうだ」と判断したからそうしていただけである。したがって周りから耳に入る多くの雑音は,私にとって余計なお世話以外の何物でもなかった。

*2:それに,「ゴール(goal)」って本来の意味は「目標」であって「最終的な到達地点」とはまた違う。人生における短期的な「目標」が大学合格だったとしたら,それだって立派なゴールではないか。