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TAお悩み相談室

TAとして受け持っている授業だが,今年はなかなか苦戦している。初めてTAをやった2年前より,よほど苦労している感がある。前回よりはるかに上手に,また効率よくこなせるはずだと,半ば慢心していた私にとって,これはまったく予想外のことであった。とはいえ,今年の担当講義は以前にも書いた通り,「アイルランドと合同」というもので,アイルランド近現代史を主に政治史の視点から総説するものだから,前回の「1850年以降のブリテン」より専門には近いはずなのである。というより,私はこの一部を使って卒論を書いたのだから,過去に専門にしていたことと言って差し支えない。なのになかなかうまくいかない。もう2週,計4回の授業をしたが,毎回落ち込んでいる。

しかしいつも反省しているので,原因にはいくつか思い当たる節がある。まず一番大きいのは自分自身の気の持ちようで,上記の通り慢心していた節があるのだが,その反面,専門なのだからと意気込んでいるためか,自分のハードルも高くなっている感はある。前は学生と一緒に学びなおそうというくらいの気分だったから,割と和気あいあいと授業をすることができた。今回も,意識としては学生と一緒に学ぼうと思っているのだが,やはり無意識的に自分がきちんと教えなければと思っているのか,どうも空回り気味である。そしてもっとよくできるはずなのにとフラストレーションがたまる。

ただこの「空回り」は,もちろん以前とは学生の性質が違うから起きていることでもある。まず,受講生の圧倒的大部分が歴史学専攻,もしくは歴史学と英文学とかのダブル専攻だった前回と違い,今回は全く違う専攻の学生が多く受講している。政治科学とか経済学とか,果ては地球科学までいる。もちろん歴史学専攻の学生もいるにはいるが,圧倒的少数である。つまり,より多くの学生が純粋に「教養科目」としてこの講義を受講しているということである。さらに,これまた今回の特徴なのだが,アメリカからの短期留学生がやたら多い。前回も数人はクラスにいたが,圧倒的少数だった。しかし,そうなるとまた様子が違ってくる。つまりアイルランド人にアイルランド史を教えるのと違って,大部分の彼らのこの先の人生には,おそらく直接役に立たないことを教えることになる,ということである。そうなるとますます,やり方がわからない。アイルランド史の知識を教え込んだところで彼らは退屈するだけだろうし,それでは意味がないだろう。つまり私に求められていることは,ただ単に「アイルランド史」を教えることではなく,歴史学的なものの見方や考え方を教えることであり,そのケーススタディとしてアイルランド史を取り上げるということである。ハードル高っ

それから,これがやりにくさの主因ではあるのだが,今年の学生の多くは割と受動的である。何かやらせれば割とそつなくこなすし,目のつけどころもとてもいいし,優等生ではあるのだが,議論になかなか加わってくれない。○○についてはどう思う?などと質問を投げても黙りこんでいることがしばしばあり,そうなると焦って私が話すことになるので,彼らは余計に黙り込む。本当は沈黙を恐れず,気長に待った方がよいのだが。重々承知してはいるのだが,しかし教壇に立つ者にとって,沈黙は恐怖でしかない。

しかしこれらは,よくよく考えたらすべて,おそらく日本で教える時になって直面するであろう問題の数々である。アイルランド人やイギリス人やアメリカ人の比ではないほど,大部分の日本人学生のこの先の人生にとって,アイルランド史は役に立たない。さらに日本の学生は,それこそこちらの学生の比ではないほど受動的である(今の子たちはそうでないと祈りたいが)。その時のための練習だと思えば,少しは苦悩する甲斐もあるだろうか。いや,練習だなんて意識でいたら,今の学生たちに申し訳ないことこの上ないので,早いところ改善してよりよい授業をしたいものなのだが。

私はこちらに来るまで,この大学がこんなに国際的だと知らなかったので,アイルランドの大学ではアイルランド史をアクチュアルな問題として教えられるし,その存在理由も自明の理で,特に説明すべきことでもないから羨ましいと思っていた。もちろん,日本ではいつも,アイルランド史を研究することにいかなる意味があるかを朗々と説明してから本題に入らなければならなかった我が身を鑑みてそう羨んでいたのである。しかし,ふたを開けてみたらこれである。さらには一般市民の聴講生などもいる。アイルランドの大学においてさえ,アイルランド史は万人すべからく学ぶべきものではない。まあ,日本においても日本史を万人すべからく学ぶわけではないので,同じと言えば同じなのだが。

そういうわけで最近,いろいろなアイデンティティクライシスに陥っている。これは一度,指導教官に相談してみようかなと思っていたところへ,「ティーチング・アワードのお知らせ」なるメールが学内で回ってきた。ティーチング・アワードとはよい授業をした教員に贈られる賞で,毎年数人が受賞する。欧米の大学では結構取り入れているところが多いようで,この受賞はかなりの名誉になるとのことである。今回のメールは,2015/16年度のティーチング・アワードのノミネーションを受け付けますというものであり,前年度までのティーチング・アワード受賞者が載ったWebページのリンクもそこに貼ってあった。何気なくそのページを見てみると,ぎゃあ,先生,去年受賞している*1なんかでも,そんなことだろうとは思ったのですよね。だってうちの先生,やたらと授業がうまいのである。やはり,是が非でも,近いうちに相談してみなければ。しかし,なんとなく気が滅入る気もする。偉大でありながら齢も近く,そのうえ気さくな師を持つというのは疑いようもなくラッキーなことだが,たとえてみればオビ=ワン・ケノービアナキン・スカイウォーカーの師弟関係のようなもので,私にはアナキンが暗黒面に堕ちた理由がなんとなくわかるような気もするのである。いや,選ばれし者として最初から優秀であったアナキンに自分を準えるなど不遜の極みなのですが。

いろいろと苦労は尽きませんが,しかしそれらは今経験すべき苦労だと思うし,何よりこうした苦労を経験できるのは留学生としてとても恵まれたことだと自覚もしているので,この際しっかり悩もうと思う。留学もそろそろ終盤に差し掛かっているが,やはり要領が悪すぎる性格のせいで,テトリスのように次から次へと難問が積みかかる。おそらく,将来この留学を振り返ったら,「もう,なんか,とにかく必死でいろいろやっていた」という思い出しかないのだろう。それこそが留学の醍醐味と言われれば,まあ,その通りなのだが。

*1:こちらのページ,"Provost’s Teaching Awards Winners 2014/2015"に載っている写真の左から2番目,髭を生やした蝶ネクタイの男性が私の指導教官です。だから常日頃あれほど髭は似合わないと(心の中で)言っているのに……。