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フェミニストに美は不要?

アイルランド語会話会でインタビューを受けて複雑な気分になったことを書いたが,実はもうひとつ印象的な出来事があったので書いておく。

会話会が行われている本屋はアイルランド共産党系の本屋であり,集う人々の何割かは思想をお持ちの方々である(だから私は,金曜は愛用のヴィトンの鞄を封印している)。昨日話した相手の1人は白髪を後ろで束ねた,ボブ・ディランが好きなロックンロールじいちゃんだった。彼に「思想」があるのかどうかはわからないが,店に貼ってある「フェミニスト映画祭」のポスターに興味を示していたところからして,比較的「左」な人であることは確かそうであった。

ところで,この本屋はまあまあ変わっていて,ボビー・ブラウンとか,そういうブランドのムック本みたいな本も取り扱っている。しかもそういう本は,割と目立つ場所に陳列されている。だからこの本屋はおそらく,きちんとそういう歴史はあるしそういう本も取り扱っているし,今も共産党系の人々が集まる場所ではあるけれども,かといってその主張に固執するわけではないという経営方針なのだろうと思う。しかし件のロックンロールじいちゃんにはそれが気に入らなかったらしい。そのブランドムック本が並ぶ一角の中の,ビューティー・ティップスだかなんだか,そういう本に目を留めて,ここはコミュニスト・ブックショップなのになんでこういう本を取り扱うかな,とぶつぶつ言っていた。そして私に,「フェミニスト映画祭なんかやっているのにその傍らでビューティーだなんて,最低だよ(awful)」と同意を求めてきた。私はこの一言に違和感を感じたので,フェミニストだって美しいかもしれませんよ,と返したのだが彼の耳には入っていなかったようだった。

私が感じた違和感というのはもちろん,ロックンロールじいちゃんが「フェミニストであること」と「美しさ」を相反する概念としてとらえていたらしいことに対してである。おそらくこれは,フェミニズムの歴史に関係する。じいちゃんが若かりし頃に経験したフェミニズムというのはおそらく1960年代から始まる第二波フェミニズム(Second wave feminism)というやつで,ブラジャーを焼くとか過激な行動で有名であり,よくも悪くも,いわゆる今の「フェミニスト」のイメージを堅固にしたと考えられるものである。ボブ・ディランが好きだというロックンロールじいちゃんは,おそらく第二波フェミニズムのロックで反体制的な部分に共鳴したのだろう。だから今でもフェミニストといえばそのイメージであり,フェミニストに「美」は不要だと考えているのだと思う。

しかし,これはロックンロールじいちゃんだけが時代錯誤なわけでもない。「フェミニストであること」と「美」を相反する概念と考える考え方は,実は割と根強いのではないか。第二波フェミニズムの闘士たちが叫ぶ通り,確かにブラジャーも化粧も,女性は美しく性的魅力に富むべきだという男性の価値観に女性を添わせる,忌むべき装置だと考えることもできる。しかし私自身のことを振り返ってみると,別にそんなこと,考えたことはないんですよね。私自身,自分がフェミニストかそうでないかと言われれば明らかにフェミニストだが,かといってブラジャーを拒否したり,化粧をせずに外に出ようとは思わない。それは単に,自分が嫌だからだ。ブラジャーをつけることによって胸の形がきれいに整い姿勢もよくなることだとか,化粧をすることによって自分の顔の見栄えがよくなることだとかは,私はむしろ,女性の特権くらいに考えている。だとしたら美しく着飾る権利もまた,女性の権利のひとつなのではないか。フェミニズムと美とは決して矛盾しない。それどころか,女性に自由を付与するという観点から見れば,むしろ親和性が高いとすら言えるのではないかと私は考えている。

そしてこの第二波フェミニストの一般的イメージは,日本で女性が「私はフェミニストだ」と言いたがらないことに大きく影響しているのではないかとも考えている。それはつまり,フェミニストというのは身なりに構わず,ヒステリックに要求を叫ぶ女というイメージがあるからだ。端的に言って,そんな女はモテない。少なくとも私のいるアイルランドでは,高等教育を受けた女性であれば大半が「もちろん私はフェミニストだ」と堂々と名乗るし,過激派でない限り彼女らは美しく装ってもいる。これは若い人々の間には(ロックンロールじいちゃんの年代はまだ第二波のイメージが強いとしても),フェミニズムにはいろいろな形があってしかるべきだという見解が共有されているからだろうと思う。

そうだとしたら,この見解はより広く共有されるべきだろう。女性の多くがいわゆるイメージとしてのフェミニズムに抵抗を感じているとしても,婦人参政権を可能にしたのも,女性の大学進学を可能にしたのもフェミニズムなのだから,その思想を「否定」までする人はなかなかいないのではないか。ほとんどの女性がある程度はフェミニズムに親和性を持っているはずなのだとしたら,なされるべきはこの「ある程度」組が胸を張って「私はフェミニストだ」と言える社会を作ることなのではないか。

とかそんなことを考えていてふと思ったのだが,私は昔からこういう,ゼロかイチかでものを考えるやり方を見るとどうも再考せずにはいられないようだ。過激派か,もしくはアンチかのどちらかではなくて,その間に幅広く分布する中間層に目を向けましょうという考えは,私の歴史学研究の基本的な姿勢にもなっているし,以下のようなくだらない論考においても基礎をなしている。

mephistopheles.hatenablog.com

でも,やっぱり多くの場合において,中間層って一番数は多いはずなのに無視されがちだと思うのですよね。それはやっぱり(効率的にも)よくないことだと思うのです。あと,カウコン,今年は放映されるみたいで本当にうれしい。