読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

情熱大陸・小林愛実

 今日放送された「情熱大陸」は今年のショパンコンクール唯一の日本人本選出場者,小林愛実さんを特集したもの。先週知ってから楽しみにしていた。

もう,おいおい泣きながら見た。

そして今日はこのことについて書こうと決め,また泣きながら見ている。言わずもがな,ピアノを弾く人間として私は小林さんの足元にも遠く及ばないが,海外で何かに挑戦している人間としてもまた,いろいろ考えさせられるところがあった。

「絶対落ちないような演奏をしないといけない。絶対『落とせない』ような演奏をすればいいわけでしょ。みんなが『これは落ちたらおかしい』って思うような演奏をしようとは思ってる」「1位が当たり前みたいな。1位じゃなかったら,やっぱダメなんだね,みたいな感じで言われる」小林さんの声は落ち着いてはいるが,言っていることはひとつひとつ,どれもとても厳しい。彼女が弱冠20歳であることを考えたら,さらに彼女はもっと若いときからこんな世界にいるのだと考えたら,生き馬の目を抜く競争の世界でひとり孤独に戦い続けることがどれほど過酷なことか,想像を絶する。コンクールは特に,どの人の演奏も個性があっていいね,では済まされない。80人が40人に,40人が20人に,20人が10人に,各段階で半数ずつ減るコンテスタントの中を勝ち上がっていかなければならない。しかも勝ち残っただけではまだ足りない。小林さんが言うように,「1位が当たり前」で,「1位じゃなかったらやっぱりダメ」な世界である。しかし,それがプロとしてやっていくということなんだろうと思う。小林さんの言葉はどれも他人から自分へ向けられる相対的な評価だが,それもまたプロの宿命で,「自分が納得する」ことなどはもはや目標にもならない。自分が納得し,人が納得し,万人が納得する結果を出すのが1位の人間である。そして彼女が目指すのはその境地である。

本選での演奏を終えた小林さんが「本当に感謝してる。みんなに感謝してる,支えてくれた,じゃなきゃここまで来れなかった」と周りへの感謝を述べたところで,そこまでグズグズだった私の涙腺は決壊した。もちろん,ピアノは周りの支えなしには弾けない。私くらいのレベルでもそうである。しかし例えて言うならそれはガラス張りの部屋でピアノに向かい合っているようなもので,周りはガラスの向こう側から励ましてくれるが,結局のところ,そこにいるのはピアノと自分だけである。つまり音楽を作り上げていくのは他でもない自分であり,それは途方もなく孤独な営みである。長い長い,周りとの,そして何より自分との戦いを終えて,こんな風に真っ先に周りに感謝できるのは,簡単なようで難しいことだろうと思う。「疲れた。でもすごくショパンが好き」という言葉も素晴らしい。コンクールを前にショパンの心臓が葬られた教会を訪れたとき,小林さんはショパンはコンクールのために曲を作ったんじゃないから,私たちは勝つためにやるんじゃなくて,ショパンが作ったものを楽しんで演奏するのが大事なんじゃないかなって思う」と言ったが,それはショパンにすべてをかけて対峙してきたからこその述懐だろう。結果発表時,惜しくも入賞を逃した小林さんは「悔いがないから怖い」と言っていたが,これもちょっとやそっとの努力ではたどり着けない心境である。エピローグで「自分ですごく大人になれたなと思う。全然8月や9月の自分と違うかもしれない」と語る小林さんは落ち着いており,大きなお世話ではあるが,私は少し安心した。3次からすべてオンラインで見ていたが,小林さんはもっと高く評価されてもいいのにと私もまた苦々しく思っており,ましてご本人はいかばかり悔しかっただろうと思っていたからだ。さっき書いたこととは少しばかり矛盾するが,客観的な結果がどうあれ,自分で成長を感じられるというのが一番の成果だろうと思う。

そして番組最後の言葉となる「認めてもらいたいけど,まだいいやって感じ。もうちょっと後でも」は,博士論文の提出を少し先延ばしにした私の身にもつまされるものがあった。私もまた,(主には奨学金が受給できたという理由ではあるが),こちらにいる間にもう少しいろいろなことをやりたいと,「まだいいや」「もうちょっと後でも」と本帰国を先延ばしにした。一刻も早く日本に帰りたかった私にとって,これは自分でも驚くべき心境の変化であった。3年半こちらにいて,博士論文は完成に近づいているし,TAや学会発表など,他にいろいろな経験もできていて,私は本当に幸せだと思う。昨日もロンドンにいらっしゃる先輩と少しチャットで話していて,我が身の幸せをつくづく実感した(先輩はもともと9月まで時間をかけたかったが,いろいろあって,3月には提出して帰国するおつもりとのことだった)。とにかく,早く提出することを目標にしてきた。そのために異例の早さで初稿を仕上げた。早く完成させることで,人に認めてもらおうと思っていた節がある(あと,アホみたいな目標だが,20代のうちに終わらせたかったのだ)。しかし今は,背伸びをするのはやめようと思う。だらだら長く時間をかけるわけでもないが,せっかく来年9月まではお金をもらいながらここにいられるチャンスをもらったのだから,歴史家としてもっと成長してから,胸を張って日本に帰ろうと思う。そのために,これまでのように「楽しかった」で終わらせるのはもうやめようと思う。誰の目から見ても明らかなほど優れた研究をしよう。指導教官が頻繁に面談をしたくなるほどがんばろう。今更ではあるが,私も決意を新たにすることができた。自分より10歳近くも年下の女性ピアニストのおかげで。