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逆鱗ナラティヴ2点

昔からどうしても好きになれない言説が2つある。

ひとつは「方言がかわいい」という旨の言説である。これ,特に東京の人たちは悪気なく言う場合が多いように思われる。方言ってうらやましい,とかも含まれる。気持ちはわからなくはない。もともと標準語ユーザーであるから,相手によってことばを使い分けるという経験がなく,単純に自分にないものがうらやましい,という気持ちは,まあ理解できなくはない。あるいは,ただ単に珍しいという場合もあるかもしれない。

しかしやはり,方言とそこに隠喩される劣等性を完全に切り離すのは不可能なのではないか,というのが私の脳裏からどうしても消えない持論である。私のネイティブ・ランゲージが岡山弁であり,どうしても粗野な印象の拭えない方言であるというのも関係しているかもしれない。今でこそ地域による多様性は歓迎すべきものとされているが,公的な場においてはやはり標準語が話されるし(関西の人々などを除き),言葉の「優劣」とまでは言わないにせよ,強者と弱者の関係は厳然としてそこにある。近代化と中央集権化の残滓からは,そんなに簡単に自由になれるものではない。たとえばアイルランド語復興運動においても,アイルランド語をありがたがり復興させようとしたのはダブリンの知識人たちで,アイルランド語話者たちはそんなことを微塵も望まなかったばかりか,むしろ移民の時の便宜を考えて英語を身に着けたがっていたというのが実際のところである。私にはこの矛盾がものすごくよくわかる。

だからこそではあるのだが,「方言がかわいい」とか「方言がうらやましい」とか言われるとき,私はその奥底にある,無意識の,「劣ったもの」に対するまなざしを意識せざるを得ないのだ。これは「方言女子」言説によってますます強化された部分があるかもしれない。なぜ「方言男子」ではなくて「方言女子」なのか。それはすなわち,「弱きもの」である女子が,さらに劣等性のレッテルたる方言で話すことによって,より一層「庇護すべき」存在として意識されうるからではないのか。というのは過敏であり,かつフェミニスティックに過ぎるだろうか。たぶんそうだろう。しかし程度の差こそあれ,そういう部分はやはりあるのではないか,というのがもう10年来くらいの実感である。まあ,つまりはオリエンタリズムの問題だろうとは思うのだが。

それからもうひとつ,「あなたのような人に初めて会った」という言説も好きになれない。これは一見,とても光栄なお言葉のように見える。しかしその実,「あなたはこの私と対等に渡り合える初めての人だ」という意味に過ぎないことが多い。

パターンにはいろいろあって,たとえば「こんなにクラシックの話ができる人に初めて会った」。こういうことを言う人の多くが,クラシック音楽を他の音楽に比べて高尚なものかなにかのように勘違いしている(もちろんそうでない人もいるが)。それから私が心底嫌いなものであるが,「文系でこんなに頭のいい人に初めて会った」というものもある。言うまでもなく,この言葉を発する人間には理系に比べて文系が劣っているというような勘違いがあり,その時点でその人間の頭の悪さは露見しているにも関わらず,この自分にふさわしい頭のいい人間としてお前を「認めてやる」,みたいな倒錯した優越感までも恥ずかしげもなく披瀝してくる。この言葉はたいていの場合予告もなく浴びせられることが多く,しかも相手は私を「誉めた」くらいに勘違いしているので,ショックのあまり呆然とするほかない。露出狂に殴られるくらいの事故レベルである。もうこの場合は,精神的にであれ物理的にであれ,その相手と絶縁するほかない。露出狂に露出してはいけません,まして殴ったりしてはいけません,と諭しても意味がないのと同じである。相手はよかれと思って頓珍漢なことをやる人間なのだから,関わらないのが一番である。

もちろん上記の2つは,あくまで私の独断であり偏見である。特に方言に関しては異論も多いだろうと思う。しかし結局,私が言われてもやもやすることというのは,突き詰めてみれば上の2点と,さらにそれに派生するようなものが多いということに最近気づいたので,記録として書いておこうと思った次第である。いうなれば私の「逆鱗」にあたるものかもしれない。

どちらももう10年ほど考えていることなので,研究内容とは関係ないとは思うのだが,やはり植民地主義とかフェミニズムとか,そういうことに関わることを研究していると,無意識的な優位性/劣等性に敏感になってくるのかもしれない。しかし,それが仕事でもありますからね。

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

 
オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)