読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

文系学生が良いレポート/論文を書くために重要なこと(1)

宣言通り,学生たちの期末エッセイの採点に着手した。しかし,なにやら芳しくない。今私の手元にある,ボトル3ユーロくらいで買った安ワインよりも芳しくない。なんなんだこれは。みんな,中間エッセイはもっとちゃんとできていたじゃないか。なんなんだこれは。

しかし彼らが犯している間違いは,日本語で論文やレポートを書いているみなさまにも有用な教訓であるかもしれない。しかも今はちょうど,期末レポートや卒論のシーズンでもある。というわけで,急遽私は一肌脱ぎ,安ワインでほろ酔いであるのにも関わらず,「良いレポート/論文の最低条件」とはなにか述べようなどと,お節介を始めようとしている次第である。

1. 序論に5割,いや6割の力を注ぎましょう

断言しよう。たいていの人は,序論でその文章を判断する。序論どころか,最初の2文(つまり,「書き出し」)と言っても過言ではない。そこで何が言いたいのかわからないと,途端に読む気を失くすか,もっと悪くすると読まれない可能性すらある。特に人文系の論文やレポートは長い。クリアカットに1ページとかでまとまった理系の論文と違い,日本語なら最低でも4000字以上くらいはあるのが普通である。だったらなおさら,以下のことが簡潔にわかりやすくまとめられていなければならない。

  1. 扱おうとするトピックの概要(1~2行程度)
  2. これに関する先行研究の見解(概略程度)
  3. 先行研究に見られる問題点や看過されてきた点
  4. このレポート/論文では何を言おうとしているか
  5. レポート/論文の構造

特に大事なのは4,「このレポート/論文では何を言おうとしているか」である。この「結論を先に見せてしまう」技法,日本人はとても苦手であるとよく言われる。しかしこちらの学生のエッセイを採点している限り,こちらの学生も大差ない。しかしこれがあってはじめて,「ああこういうところに注目して読めばいいのね」と読者への目印になるのだ。何が言いたいのかわからない話に付き合ってくれるほど,読者は暇でもなければ親切でもない。そんな話が成り立つのは女子会くらいだ。最後まで話を聞いてほしければ,「今からこのことに関して話そうとしています」と明示するのはとても大事なことである。*1逆にこれがないと,読み手は序論の時点で疲れ果て,その時点で評価が3割引きくらいからのスタートということになる。そのあといかによい議論を展開していても,である。そういうわけで,論文でもレポートでも,序論に何よりも注力すべきである,というのが私の持論である。少なくとも研究者は,論文やレポートを書く時は,本論から書き始めて序論は最後に回すのが普通である。

2. 食材を引き立てる使い方をしましょう

今回の期末エッセイでは「一次史料を使うこと」が条件とされており,多くの学生が「この一次史料でいいかどうか」「一次史料が見つからない」などとメールで尋ねてきた。大変ではあったが,私もそれなりに努力して,アドバイスしたり探すのを手伝ったりしたつもりである。

しかし蓋を開けてみると,おい,そもそも一次史料の使い方がヘタクソだな。というか,こんな雑な一次史料の使い方があるのか!と驚くようなレベルである。そもそも,引用しない。「○○によると~~である」とだけ書いて,一次史料の引用はそこで終わっていたりする。さりげなさすぎて,一次史料が使われていたことにすら気づかず,後からもう一度見返す手間がかかることも多々であった。おい。「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る」という言葉があるが,一次史料も同じである。せっかく見つけてきた貴重な史料じゃないか。使えるだけ使え。引用して解説して批判して再考しろ。そもそも2000ワードなんてかったるいエッセイを書くのに,一次史料の引用はこれ以上ない字数稼ぎの口実になるではないか。それを有効活用しないなんて,本当に信じられない。

そしてエッセイや論文はよく料理に例えられるけれども,一次史料はいわばメインとなるべき食材である。新鮮な松茸が手に入ったとして,それをミートソースに入れたりカレーに入れたりしないでしょう。焼いたり土瓶蒸しにしたりするでしょう。食材には食材の力や風味があるのだから,それを引き立たせる使い方をしなければならない。まして力の強い食材は,その味を引き立たせなければならない。これは歴史学でなくても言えることだとは思うが,一次「資」料と二次文献があったとしたら,絶対に優先順位は一次資料におかれるべきなのだ。二次文献は援用するか,批判するためだけに使うもの。間違っても一次資料と二次文献を同列に扱ってはいけませんよ。

そして私が何より重視したい/したかったのは,一次史料を批判的に読めているかどうかという点である。歴史学には「史料批判」という言葉があるが,それは史料を鵜呑みにするのではなくて,そもそもの成り立ちや性質を批判的にとらえ,有用性に留保をつけるというような考えである。今まで10通ほどのエッセイを見て,これができているのは1人だけであった。だから「重視『したかった』」と,過去形にせざるを得なかったのだが。

エッセイを採点していて,目についたところは今のところこの2つである。今後また新しいポイントが目につく可能性もあるので,今日のタイトルには番号を付した。そして,これは日本人学生にもきっと役に立つ教訓であると信じてここに書く次第である。どちらも,わかっている人々にとっては当たり前すぎるほど当たり前な話だろう。しかし,驚くべきことにというべきか,この「当たり前」なことができていない例が多すぎる。

大学の勉強がそのまま社会で役立つなどと考えるのは甘いかもしれない。しかし少なくとも,人の言わんとしていることをきちんと読み取り,わかりやすい論理的な文章を書く力は,身に着けておいて絶対に損はない。また「史料批判」に見られるような,ソースを疑うというスキルは,情報に溢れた現代世界を生きていくうえで絶対に必要な能力であるだろう。私は自分が教える学生には,歴史の事項などどうでもいいから,まずはそうした力を身に着けてほしいと思っている。

*1:むしろ女子会でも,「実は別れようかと思って」から話が始まったりするので,その点では結論が先に提示されている。