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採点終了

エッセイの採点が終了し,これをもって今学期の私のTAとしての業務は(おそらく)完了となった。予定通り2日で終わらせたが,週末が文字通り潰れてしまった。

今回最高得点をたたき出したのは,アメリカ人の短期留学生ジェシーであった。彼は飢饉後の移民にテーマ設定し,適切に記事を引用したのみならず,その記事によって記者がアイルランド移民を「どのように」描こうとしているかということについて非常に思慮深い考察を加えていた。分析的かつ批判的であり,エッセイ課題のレベルをゆうに超えるすばらしいものだった。基本的な作法の部分で少し誤りがあり,申し訳程度に満点から1点だけ引いた。ジェシーは中間エッセイでは「中の上」くらいの成績だったので,そこからぐんと成績を上げたのは見ていて小気味よいものがあった。正直に言って私自身も,彼がこんなに素晴らしいエッセイを書くとは全く思っていなかったので,うれしい驚きであった。ジェシーのように,中間エッセイはまあまあだったにも関わらず,今回のエッセイがかなりいい出来だった例はほかにもちらほらいて,彼らのエッセイには惜しみなく高得点をつけておいた。

また,ジェシーもどちらかといえばそうなのだが,授業であまり積極的に発言する方でない学生たちのエッセイが良いものだったという例も多かった。こちらでは日本以上に授業への積極的な参加が評価される傾向にあるが,かといって授業で発言しない学生たちが授業を軽視しているというわけでもない。こちらにも内気な学生はいて,発言するのに躊躇したり,あるいは留学生で英語に自信がないという例もある。正しいかどうかわからないことを迂闊に発言したくないという学生もいるだろう。逆に,授業で発言する学生がすべて素晴らしい発言をするわけでもない。ただ自分がしゃべりたいからしゃべっているだけという場合もある。こんな具合で,発言するかしないかというのは,見る限りほとんどが学生の性格の問題である。

もちろん教師の立場からすると,発言できるならしてくれた方がありがたい。しかし授業という機会をどのように利用するかなんて,それはもう学生の勝手であろう。授業中の発言に代表されるような,「授業への積極的な参加」を何よりも評価する評価方法は私が学部生の頃すでにあったが,これが果たして本当に学生を評価するに足る基準なのだろうかと,その時からずっと疑問に思っていた。それって,もはや「先生をいかに喜ばせたか」に等しい基準なのではないかと。一見授業に積極的に関わっていないような学生でも,彼らはきちんと学んでいるし考えている。それはこういう風に,集大成として提出するエッセイやレポートを見れば明らかである。いろいろ考え方はあるだろうが,やはり私が今後教えるときには,「授業への積極的な参加」のようにいくらでもごまかしのきく基準よりも,提出される課題の出来を基準にして,厳密に学生の成績を決めたいものだと思った。

それにしても,こちらの大学が大変親切だと思うのは,こうしてエッセイを提出するたびにフィードバック入りで返却されることである。少なくとも私が教養課程にいた頃,レポートというものは出したら出しっぱなしであった。膨大な量のレポートにいちいち赤を入れるのも大変なのはわかるので,そうなるのは十分理解できるのだが,しかしこれだと何が悪かったのかわからないので,勉強にならない。それに,レポートが添削され,コメントを付けられて返ってくるとなったら,学生たちも適当なレポートは書けないのではないか。コメントが付くからではない。自分がゴミみたいなものを生み出して,それを時間差で眼前に突き付けられるとなると,よほどのことがない限り恥ずかしいからである。昨日書いた通り,大学できちんと身に着けなければならないのは,専門的な知識よりも,まずはきちんと文章を読み解き,そしてきちんと文章を書く力であると思っている。そういう意味でも,やはりTAを増員してレポートをきちんと添削・採点させることは,学生にもTAにも非常にいい勉強になると確信しているが,現実的にはなかなか難しいところがあるのだろう。

さて,明日は9時から私自身の面談なのだが,採点を終わらせた解放感のあまり,これから改めて準備などできそうにない。今日は早く寝よう。