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選択的夫婦別姓をめぐる判決について

夫婦同姓は合憲であるとの最高裁判決が出た。あまり期待していたわけでもなかったが,判決が出てみると,やはりがっかりするものである。判決では選択的夫婦別姓に「合理性がないと断ずるものではない」としつつも,「国会で議論されるべき事柄」であるとして判断を見送った形になっている。ただ,国会で議論されるべきとなれば,少なくとも現政権下で選択的夫婦別姓が認められるはずはないだろう。

政治的なレベルでいえば,私は選択的夫婦別姓に賛成の立場である。しかし個人的なレベルでいえば,私自身の姓に関しては,特にそこまでのこだわりがあるわけではない。30年近く付き合ってきた今の苗字には,それがまあまあ珍しいものであるということも手伝って,割と愛着がある。正直に言って,もし私が「佐藤」さんとか「山田」さんとかを好きになり,結婚してその姓に変わるとなったら,多少「ええー」とは思うだろう。でも,「ええー」くらいである。それが私にとって「アイデンティティの喪失」につながるとまでは思わない。姓が変わろうが国籍が変わろうが私は私である。結婚して夫の姓に変えるのも,まあそれはそれで楽しいかもしれない,くらいに思っている。

そして私の父方の家系は,祖父はきょうだいの中では唯一の男であり,また父は一人っ子である。さらに私は妹と2人姉妹なので,両方が結婚して姓を変えれば,(姓を家の象徴とする限り)我が家は途絶えてしまうことになる。寂しいことだとも思うが,幸い私は研究者であり,私の書いたものには私の名前が残る。この先結婚したとしても,研究者としての名前はずっと旧姓のままにするつもりであるから,そういう形で名前が残ればそれでいいのではないかと思っている。したがって,結婚したら通名として旧姓を利用しつつ,戸籍上は夫の姓に変えるという,今割と一般的に取られているやり方にしようかなというのが私の考えである。特に政治的な理由からではない。上述の通り,使用する名前が2つあるというのも,「それはそれで楽しい」かな,くらいの考えである。

ただ,私の名前は「舞」である。二文字の名前というのは,実は結構座りが悪いのだ。まず,二文字の苗字とは決定的に相性が悪い。賢明なる読者のみなさまには,たとえば私が「土井」さんと結婚することを考えてみていただきたい。「土井舞」,まあ字面自体はそう悪くないとしても,音は「ドイ・マイ」となる。先ほど,試しにFacebookで「doi mai」「土井舞」と検索してみたが,検索結果で表示されたのはどれもこれもベトナムの方ばかりであった。ベトナムは1986年に「ドイモイ」という政策を取っているが,それを考えても,「ドイ・マイ」はなるほどベトナム語の語感である。さらに,たとえば「今井」さんと結婚する場合はどうなるか。「イマイ・マイ」,「イ」と「マ」しか使わない上,見事な回文である。*1他にも,おそらく女であれば誰しも身に覚えのある悪行かとは思うが,気になる殿方の苗字と自分の名前をくっつけてみたとき,「ああ,なんか違う」とがっかりして勝手にスピード失恋することは,少なくとも私の場合,多々ある。「舞」という名前は華やかで大好きだ。これは親に感謝している。しかし同時に,かなり気難しい名前であることも確かなのである。

ただ,そんなくだらないレベルの悩みであっても,そこに選択の自由が与えられるなら,それは幸せなことであろうし,そしてそれは万人に認められるべき幸せであろうと思う。現行民法では「夫婦」を同姓にすべきとしているだけで,何も女性だけに姓の変更を強いるものではないから差別的ではないというのが今回の判決の理由のひとつであるそうだが,じゃあ夫が妻の姓に変えればそれで万事OKなのかというと,そうでもない。私が「ええー」と思うのと同じように,相手が私の苗字に変えることを「ええー」と思う可能性だって大いにある。そういう時に,「なんかどっちもしっくりこないから,お互い今までの苗字のままにしようか」という選択肢はあっていいはずだ。

そしてもちろん,「選択」の結果夫婦同姓を選ぶ権利も,もちろん許されるべきだろう。世の中にはこの「選択的」の意味をよくわかっておらず,「強制的夫婦別姓」と勘違いして反対している人も多いと聞く。同姓にする権利はそのまま保たれた上での別姓の権利なんですけどね,人の権利までも規制したいのはなんでなのでしょうね。右派政党の方々が言われる通り,「家族の絆」が危機に晒されるからなのだろうか。「家族の絆」って,世間や国から強制されるべきものなのか。

delete-all.hatenablog.com

そのことに関しては,こちらの素晴らしい記事に書かれていることに私は全面的に賛同する。いわく,

正直なことをいえば、どの姓を名乗るか?それくらいのことで維持出来ないような家族ならば無くなってしまっても構わないと思う。現実的ではないけれど、個人が特定されるならば、姓なんかなくなってしまっても構わないとさえ思う。大事なのは、家族という枠組みに甘えず、強い関係を維持構築するように毎日努力することなのだ。生きるってのはそれだけでハードコアなのだ。

 とのことである。どの姓を名乗るか,ということくらいで維持できなくなるような家族ならなくなってしまって構わないという指摘もさることながら,「家族という枠組みに甘えず」という一節が正鵠を射ている。「家族」もそれを象徴するとされる「姓」も,個人的なレベルでは枠組みでしかない。枠組みだけ維持していても中身は破綻している「家族」などいくらでもあるし,逆に枠組みが危うくても強い絆で結ばれている家族もまたいくらでもある。「家族の絆」が国家レベルで強制・維持されなければならないのは,国家の最小単位こそが家族ととらえられているからで,それは非常に危険な全体主義思想である。現にナチスも,同じことをやっていた。

ではこの国において,選択的夫婦別姓は絶望的なのか。私はそうは思っていない。先日も書いた通り,私はこの国の結婚や家族制度に未来はないとはつゆほども考えていない。*2ただ,この国では改革に時間がかかる。世界的に見ても,選択的夫婦別姓が認められていないのは日本だけである。21世紀を生きる歴史家のはしくれとして,発展主義的歴史観をとるわけにはいかないが,ジェンダーをめぐる議論は明らかに活発になっている。アイルランドでは同性婚が法的に認められるようになり,サウジアラビアでもついに女性の参政権が認められた。日本でも,現政権がいつまでも続くわけではない。おそらく道のりは長いだろうが,女性の大学進学や婦人参政権と同じく,夫婦別姓はいつか必ず実現されるだろうし,今回の判決はその礎石として意味があるものだったと私は信じている。

*1:とはいえ先ほど,これもFacebookで検索してみたら「今井舞」さんは数名実在したようなので,私の勝手な見解であることをどうかご容赦いただきたい。決して悪しざまに言っているわけではない。

*2:主にコメント欄ですが。

mephistopheles.hatenablog.com