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BL短歌を鑑賞してみよう

pdmagazine.jp

「BL短歌」というものがあるらしい,と,今朝この記事がFacebookに載っているのを見て初めて知った。恥ずかしながら,私はBLやアニメといった当世風の教養をまったく持ち合わせていない。しかし,大好きな短歌となると話は別である。ちょうど今回の帰国では短歌雑誌も買っていなかったしよい歌集も見つからなかったので,短歌に飢えていた。すぐに記事のリンクに飛んだ。

BL短歌,名前だけ見れば奇異なようだが,BLを含む同性愛あるいは同性愛的感情というものは,それこそ古代ギリシャから文学作品の主題として確立しているものなので,実はそこまで珍しいものでもない。ただ,残念ながらと言うのかなんと言うのか,私自身がいわゆる「ストレート」であり,また同性愛に「萌え」た経験もないゆえに,記事中で岩川ありさ氏が「基本原則」として挙げている,「五七五七七に萌えをぶっこむ」の中の肝心な「萌え」の部分がわからないという点において,鑑賞の際にもハンディがあるかと思われた。

ところが実際の例として挙げられている歌を見てみると,意外なほどすんなり楽しむことができる。どれもこれも,純粋に短歌としてとてもよいのだ。考えてみれば,BLの持つ潜在的な成就不可能性と,そこからくる刺すような痛みは,なるほど短歌と強い親和性を持つものである。記事中にもある通り,最近では特にアニメなどの二次創作として短歌を詠むという動きが盛んであるらしい。その中でも,私は「おそ松短歌」の1首にとても心惹かれた。なので,今日はその歌を勝手に鑑賞してみようと思うのである。

私が特に良いと思ったのは「赤い糸内蔵済みのハイテクなオムファタールが五人いる、俺」。これはもう,ひさしぶりの衝撃であった。まず,言葉選びのセンスがすばらしい。「内蔵済み」「ハイテク」「俺」と,男性的なモチーフが並ぶあたり,加藤治郎作品を彷彿とさせる。それに「オムファタール」という,ぱっと目にとまる造語的な言葉があり,この歌のアクセントをなしている。

内容に目を移すと,なによりも「赤い糸内蔵済み」というのが何重にも意味をなしていて面白い表現だと思われる。ロマンティックな運命のシンボルとして夢見がちに使われる「赤い糸」という言葉が,「内蔵済み」という硬質な機械的表現と隣り合わせになることによって,運命があらかじめ決定されていたものであるという意味でのロマンティックさを補強する一方で,その運命が不可避であることを「わかっているんだろうな」とばかりに突き付ける暴力性をも兼ね備えることになる。「内蔵」されているものは,恣意的に取り外すことができない。これは『おそ松さん』の主人公が六つ子であり,すなわち血縁関係にあるということにも関わっているだろう。血縁関係は何よりも強い「赤い糸」でありながら,しかし恋愛という意味では禁忌である。赤い糸で結ばれながら赤い糸にがんじがらめになっているような,何者にも代えがたい喜びとこの上ない悲劇とが矛盾なく存在する世界である。

そしてさらに,「五人いる、俺」の読点。これがまた絶妙な効果を持っている。句読点を使いこなす歌人として代表的な例は釈超空(折口信夫)だが,*1

道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行きとヾまらむ旅ならなくに

 たとえばこの歌などよくわかるように,句読点が歌の中に用いられることによって読者ははっとさせられる。音楽でいうところの「フレーズ」に,意図的に切れ目を作るとでも言おうか。一瞬,読者を現実に引き戻すような効果がある。「詠む」よりも視覚的に「読む」ことが意識された技法である。現代ではこの技法も割と珍しくないように思われるが,*2この句読点の使い方,狙いすぎると読者が白けてしまうリスクも持っている。上の「おそ松短歌」にしたところで,「五人いる俺」にしても特に問題はないと思われるのだが,敢えて「五人いる、俺」と途中に読点を含むことによって,ひと呼吸おいて「俺」にフォーカスを絞る効果がある。つまり「オムファタール」のことを詠んでいるように見えて,主体はあくまで「俺」なのである。そうして見てみると,この歌全体がただ「俺」を装飾しただけのものであることに気づかされる。

また『おそ松さん』の六つ子が無職であるということを考えると,「ハイテク」にもなかなか含意があるように思えてならない。「どうしようもない」とか「役立たず」をどうしてもある程度含意してしまう「無職」という属性でありながら,しかし6人の関係性においてお互いは「ハイテク」なのだ,と考えるのはさすがに深読みしすぎであろうか。しかしどうしようもない閉塞の中で相手に手をのばすというのは,それこそBLの粋であり,ひいては文学に描かれる恋愛の粋ではなかろうかと推察する。少しばかり話が大きくなってしまっただろうか。

冒頭に引用した記事では,岩川氏がご専門のクィア批評を援用しながらBL短歌を解説してくださっているのだが,これも非常に面白い。まず「萌え」について,岩川氏は「少し距離を確保しながら,何かに恋することを可能にする言葉」であると述べていらっしゃるが,この定義は本当に目から鱗である気がした。少し距離を確保するというのは,自分は常に安全圏にありながら,しかしそれ以上には近づけないということで,恋愛関係に限らずとも非常に現代的な人との距離感なのかもしれないと再認識させられた。また,「BL短歌は純粋に一人称的な表現ではないところに可能性が秘められている」というのも,短歌のみにとどまらず文学の表現可能性を広げるものである気がした。物語を作るとき,まずは語り手を1人称にするか3人称にするか(それとも,とても珍しいが2人称もありうる)という問題は避けて通れないと思うが,BL短歌やそれを含む二次創作はある意味においてそれ自体がメタフィクションである。虚構性を担保しつつ,どこまで歌の対象に感情移入できるかという点においては挑戦的でもあるのだろう。

前にも紹介した通り,ジャニオタ界隈では芦屋こみねさんが牽引なさっている「ジャニオタ短歌」がある。*3オタクが加速して詩作に耽り始めるというのはどこの世界も同じであるようで,なかなか正統な昇華の仕方であるように思える。しかし,ある程度開き直っているジャニオタたちと違い,BLの世界はまず同人かつ二次創作という制約もあり,さらにやはり世の中には抵抗がある人も少なくないということで,もっともっと小ぢんまりと静かに楽しんでいらっしゃる印象である。私のような,BLもアニメも解さないような野蛮人がその平和に踏み込んでいくのは少しばかり気が引けたのだが,やはり短歌鑑賞を趣味とする人間としては,出会えてよかったと心底思えるジャンルであった。いやー,深読みって楽しい。

それにしてもつくづく情けないのは,私自身が創作の才能をまったく持っていないことである。小説書いたらどうですかとか,短歌詠んでみたらどうですかとか,たまに言われるのですが,私にとってフィクションは,やっぱりひたすら読んで楽しむものなんですよね。

*1:折口自身もまた同性愛者であるということとは関係あるだろうか(ないかも)。

*2:たとえば東直子の「来訪者みな屹立し待っている(会える?会いたい?話がしたい?)」など,括弧まで使い,また語り手が変わっている。

*3:これについて以前書いた記事は

mephistopheles.hatenablog.com

こちら。そして芦屋こみねさんの元の記事が

ashiyakomine.hatenablog.com

こちら。